気に入った物、使い込んだ物などが手元にあると安心感がある。
他人と繋がるスマホなんかもそれに当たるのかもしれないが、自分の場合は例えば万年筆がそれの一つである。外出時にスーツのポケットや鞄の中にあると、必要になったときにすぐに書けるというだけでホッとした気持ちになる。
同じようなことは、電卓にも言えるのではないか。
普通に過ごしていて、何かを計算しなければならないということはたまにあるが、数字に強く暗算が得意でもない限り、その計算で間違いがないのかと不安になる。使い込んだ電卓が手元にあれば、それで計算をして正しい値を導くことができる。
とは言え、電卓ともなると筆記具やスマホと同じく気軽に持ち歩くようなことはできない。鞄があればそれに入れておくということもできるが、普通に使う電卓は今は葉書大かそれ以上の大きさのものが主流なので、使用頻度も考えるといつも鞄に入れて持ち歩くということは難しい。
ただし、普段過ごす場所、書き物をしたり仕事をしたりする場所、机の上や引き出しの中に入れておくことは出来るし、普通皆そうしている。手元にあってすぐに使える状態になっている、そこにあるだけでも安心感が違う。
子供の頃、まだスマホもパソコンなどもない時代で、電卓は手軽に遊べる機械でもあった。玩具というものではなかったが、それでも触らせてもらって、任意の数字を入力したり計算結果を表示させたりすることだけで、普段は紙と鉛筆で解かなければならない算数の問題が一瞬で解決できる夢のような機械であったのである。
今はそういう夢の道具が手軽に入手できて使えるようになったが、改めて手元に置いておくようにすると、懐かしさも相まってそういう安心感が沸いてくる。
しかし何故なのか、そういう安心感は安価に簡単に入手できるようなクラスの、キーがカチャカチャする電卓などではあまり感じられない。もう少し上質なもので、キータッチも快適で、手に馴染むようなもの、あるいは何年も使い込んだ相棒のようなものでなければならない。
万年筆と同じである。
電卓は人それぞれ好みもあって、そんなに頻繁に買い換えるものではない。
古い物、壊れかけた物、機能が足りないと思われる物などであっても、使っている本人が手に馴染んでいるというだけで、それは電卓として何年も役に立つことになる。自分も最近まで特に電卓には興味を持っていなかったが、気付けば仕事では10年近く同じ電卓を使っていたし、その後の電卓もあまり気にせずにやはり10年近くは同じ機種を使っていたようだ。逆に興味を持つとこれが良いのかあれが良いのかと時々替えて使ってみたりするが、やはり最終的に落ち着くのは作りがしっかりして手に馴染むものなのである。