マークダウン
生成AIを利用して文章の作成をするということも当たり前になってきたが、その文章を書いてくれるよう指示をするのがプロンプトへのテキスト入力である。このプロンプト入力作業こそが、今後の文章書き作業になっていく。
簡単なプロンプトであれば、Webの生成AIのチャットのフォームにそのまま入力することで足りるだろうが、長文を書いてもらったり、ユーザの意図する方向の文章を生成してもらうこととなると、その設計図に相当する構成やプロット、コンセプトを書いて指示する必要がある。Webのフォームではそのような長文プロンプトに適した造りにはなっていないので、従来のローカルなアプリで作成して、それをコピペするのが普通である。
長文プロンプト、構造化したテキストということになると、生成AIの分野ではマークダウン形式が有効とされている。
マークダウンについては、どのようなものかというくらいは知っていたが、マークアップ言語であるHTMLが使えるのだから、特にその必要性を感じていなかったし、比較的新しい記述ルールであって、マークアップをダウンする、という二番煎じ的なものかと思っていてあまりそれを知ろうとも思っていなかったのだが、今になってそれがきちんと市民権を得た記述方式というのを知って、気付けば生成AIの他にもあちこちで活用されているのに気付き、慌ててそれを理解しようとしている。
しかし、さほどそれは難しいものではない。そもそもマークアップ言語、HTMLへの変換を目指して記述するための簡易ルールというような位置付けの部分もあって、簡単なルールで構造化テキストが作成できるようになっている。
見出し記号、箇条書き、あとは強調やほか幾つかのルール程度を覚えたら、少なくとも生成AIのプロンプト作成では十分に役に立つ。
マークダウンを書くツールとしては、やはりテキストエディタということになるので、普段から使っているWZ EIDTORや秀丸、あるいはMeryでどの程度対応しているかを初めて調べてみた。
WZは、既にマークダウンの書式・記法にも対応していて、拡張子を.mdなどにしてその設定関連付けの状態を調べる程度だった。HTML同様に、あるいはプレーンテキストで使う、半角ドットの見出し記号操作と同様に、見出し部分は色分けされたり強調されたりする。これで十分である。
秀丸はその設定がなかったので、見出し記号として認識するように設定してやる必要があった。しかし、マークダウンと言っても、せいぜいその見出しに基づく階層と箇条書きを認識してくれる程度で十分であるので、さほど設定は難しいというようなものではない。
Meryは、これも最初からマークダウン記法の書式設定を持っているので、.md拡張子のテキストをひらくだけで問題なくマークダウンの文書が扱えるようになる。
また、WordPressのブロックエディタも当然にマークダウン形式に対応しているので、これも意識する必要がない。あるいはGoolgeのKeepのメモ書きもマークダウンの記法に対応して、当たり前になっているようなのである。
つまり、ほとんど全て、既にマークダウン形式には対応しているので、プロンプト作成のためのテキストだけでなく、これまでプレーンテキストとして作成していたこのブログ原稿なども、最初からマークダウンで書いたほうが都合が良いとわかったのである。プレーンテキストでWordPressに入力してやると、そこから見出し付けなどをしなくても相応する見出しが自動的に設定される。単純なことながら、実は今まで意識していなかったのでる。
従って、テキストエディタでの原稿書き用テキストも、プレーンテキストからマークダウンテキストに変えてみたくらいである。
Realforce R4
Realforceのキーボードに、R4シリーズがリリースされた。
R3と比較してボディがコンパクトになり、近接センサーやマウス機能、もっと細かいAPCなどが仕様変更となっている。全モデル静音スイッチと思われる。乾電池はR3では単三だったが、R4では単四電池となった。JIS配列モデルでは45g、変荷重、30gの各モデルが用意されているようだが、US配列では45gのモデルだけしか、発売当初の現時点では用意されていない。30gモデルが後から追加されるのではないかと期待している。
RC1で30gの押下圧のモデルを体感してしまった後は、45gの標準的なものももちろん悪くはないが、どうせなら30gのモデルをしっかりと使いたいと思ってしまう。次のUS配列のRealforceは、30gのモデルから選びたいと思っている。無論、これは既存のR3モデルに特別の不満があってというわけではない。
30gモデルは、最初の数日は慣れなかった部分もあるが、この感覚を知ってしまった後は、もうこれが一番と思うようになってしまっているので、これ以外の押下圧はもう重いとさえ感じてしまうようになった。今はRC1のキーボードで30gモデルを使い入力しているが、今後はこの押下圧を自分としては標準的に使いたいとも思っている。
ドックから離脱させるPC
次のような指示を生成AIに渡して、文章を書かせてみた。自分は、どちらかというと普段使うことが多いGeminiが出力した文章のほうが好みであるが、人によってはChatGPTのようなスッキリした文章のほうが良いという場合もあるかもしれないと思う。
# 指示
次の要点を含めたエッセイ風の文章を生成してください。
## 要点
- 普通の人はノートPCをノートPCとして使う。
- 普段はノートPCをデスクトップのように、モニターやキーボード、マウスを接続して使っている。
- ドックを経由してそれら機器を接続している。
- ノートPC本体のキーボードやモニターを使うことがほとんどない。
- たまに本体だけで使ってみるため、ドックを外して本体だけ別の場所に持ち出す。
- 普段はドック経由で有線LANだが、ドックから外して、Wi-Fi接続にもしてみる。
- 電源も、バッテリー駆動状態にしてみる。
- PC本体のキーボード、モニター、そしてタッチパッドの環境も悪くない。
- 画面の大きさは全く違う。普段のモニターは24インチ、PCは14インチだ。
- だがこの本体だけで全てPCの機能は備わっているので、問題ない。
- 寧ろ、コンパクトな環境で作業ができるというのも面白い。
- 普段AC電源使っているので、たまにバッテリーも使ってやるのも良い。
- ノートPCの本体機能を使うことこそ本来的な使い方かもしれない。
## 要件
- 文章の長さは任せます。
- 書き手は1人称「自分」としてください。
💻 本来の姿に戻るノートPC (Geminiの場合)
世の中の「普通の人」は、きっとノートPCを文字通りノートPCとして使っているのだろう。カフェで、リビングで、出張先のホテルで、その時々で場所を選ばず開いて、内蔵のキーボードを叩き、画面を見つめる。それがノートPCの「本来の姿」であり、最大の魅力だ。
しかし、自分はどうだろうか。
自分のノートPCは、その名に反して、ほとんどの時間を「デスクトップPCのふり」をして過ごしている。普段の定位置では、USB-Cドックを経由して、外部の24インチモニター、フルサイズのメカニカルキーボード、そしてマウスが接続されている。PC本体はただの箱、あるいは高性能なドックの蓋に過ぎず、本体のキーボードや14インチの小さなモニターに触れることは、電源を入れる時や、ごく稀なトラブル対応時以外、ほとんどない。ネットワーク接続も、ドック経由の安定した有線LANが基本だ。
それはそれで快適で、大画面と打ち心地の良いキーボードでの作業効率は抜群だ。だが、たまに、ふと「この子は本当にノートPCだったな」と思い出す瞬間がある。
そんな時、自分は儀式のようにドックからケーブルを抜き、本体だけを手に取る。まるで繭から蝶を解き放つように、本体だけを別の場所(例えばリビングのテーブル)に持ち出すのだ。
ドックを外せば、有線LANの呪縛から解き放たれ、自然とWi-Fi接続に切り替わる。電源ケーブルも抜き、バッテリー駆動の状態にする。
するとどうだろう。一瞬の戸惑いの後、そこには完璧な「オールインワン」の作業環境が現れる。14インチの画面は、24インチの慣れた景色と比べれば画面の大きさは全く違う。しかし、この小さな筐体の中に、普段行っている全てのPC機能が過不足なく備わっているのだ。
内蔵のキーボードや、数ヶ月ぶりに触るタッチパッドの操作感も悪くない。むしろ、手のひらに収まるようなコンパクトな環境で全ての作業が完結するというのも、これはこれで面白い。大画面では得られない、「凝縮された集中力」を感じる。
そして、いつもACアダプタ経由で満たされていたバッテリーに負荷をかける。たまにはバッテリーにも本来の役割を果たさせてやるのも、機械に対して「健全な付き合い方」なのかもしれない。
ドックに繋がれ、デスクトップとして使われることも便利で合理的だ。しかし、この本体だけで作業する時、自分は思う。外部機器に依存せず、内蔵の機能だけで独立して動くこの状態こそ、ノートPCがノートPCであることの、最も本来的な使い方なのかもしれないと。
ChatGPTの場合
普段、自分はノートPCをあまり「ノート」としては使っていない。机の上には24インチの外部モニターがあり、フルサイズのキーボードとマウスがある。ノートPC本体は、その周辺機器をつなぐためのハブのような存在で、実際にはドック経由で有線LANも含め、すべて接続されている。電源も常にACアダプターに頼りきりだ。まるでデスクトップPCのような使い方で、ノートPC本体のキーボードやタッチパッドに触れる機会など、ほとんどない。
ところが、たまに気まぐれで、ドックを外し、本体だけを持ち出すことがある。リビングのテーブルに置いたり、窓際の小さなスペースに持って行ったりして、Wi-Fiに切り替え、バッテリー駆動で動かしてみる。普段は固定化された環境に埋もれていたPCが、急に「自立した機械」として目の前に現れる瞬間だ。
14インチの画面は、いつもの24インチに比べればずいぶん小さい。それでも、見やすい明るさと解像度があり、キーボードの打鍵感も悪くない。タッチパッドの操作も思いのほか軽快だ。すべての機能が、このコンパクトな筐体の中に詰まっている。改めてそう感じると、少し感心してしまう。
普段はAC電源に頼りきりだが、バッテリーで動かすときの静けさにも魅力がある。コードに縛られず、どこにでも持ち出せる自由。そういえば、これこそが「ノートPC」という名前の由来だったはずだ。
結局のところ、外部モニターに囲まれた快適な環境もいいが、本体だけで完結したコンパクトな世界にも独特の心地よさがある。自分のノートPCを、本来の姿で使ってやる。そんな小さな実験が、日常の中にちょっとした新鮮さを運んでくれる。
これからの文章書き
従来、文章を作成する際の基本的な態度は、テキストエディタの画面に向き合い、思考をキーボードで打ち込み、自らの手で完成させることであった。それは、長文であればあるほど、書き手としての集中力と労力を必要とする、ある意味根気のいる作業であった。
しかし、近年の生成AIの著しい発展は、この文章作成のプロセスに根本的な変化をもたらしつつある。試行錯誤の結果、現在提供されている生成AIの能力は、単なる定型文の生成に留まらず、書き手が意図する論旨やニュアンスを十分に含んだ文章を高い精度で出力し得ることがわかった。
新たな執筆の流れは極めて簡潔である。
詳細な指示書を必要とせず、箇条書きのような断片的な要件をAIに与えるだけで、すぐに論理的かつ実用的な文章の骨子を得ることができる。この出力された文章を、人間である書き手が主導権を持って確認し、表現の調整や、より深い論理展開のための肉付けを行うというプロセスが確立されたのである。
この方式の最大の利点は、その圧倒的な効率性にある。文章の構成や初稿の作成にかかる時間は劇的に短縮され、思考を文章化するまでの障壁が大きく取り払われることとなった。今後は、特に実務的な文章作成や情報伝達を目的とする場合、このAIによるドラフト生成と人間の手による編集・調整というハイブリッドな方式が、基本的な作業スタイルとして定着し、何ら問題なく運用されるであろう。
ただし、この効率化されたプロセスにおいても、キーボードを打鍵するという物理的な行為自体は依然として残る。最終的な推敲や微調整、あるいはAIへの指示入力のために、打鍵は不可欠な作業である。しかし、何千字もの長大な文章を、自らの指先から生み出しているという、かつての書き手が抱いていた実感を伴う感覚は、新しいプロセスの中では希薄にならざるを得ない。この、長文執筆の重労働から解放される代わりに、創作の身体的な感覚が失われていくという点には、時代の変化を映す鏡として、ある寂しさを覚えるのである。
……という文章を作らせてみた。Geminiで出力されたものを僅かに修正した。プロンプトは次のとおり。500字ほどのプロンプトで、その3倍程度の分量の文章を得られた。かつて誰もが、こういうエージェントが居てくれたら良いと思いつつ、ビジネス文書などは簡単な代行アプリがあったりしたが、今はようやくそれが誰でもどんな文章でも簡単に実現できるようになったと思う。
キーボードを巡る環境
キーボードを使い始めた当初、というか意識してキーボードを使うようになった当初は、キーボードで打鍵さえ出来れば良いので、その使う環境についてはあまり考えることは無かった。つまりそのキーボードで打鍵さえできれば、それで良かったのである。
それよりは、キーボードの配列だとか、機構だとか、その打鍵感をどうするかということのほうが重要だった。
結局それがRealforceやHHKBが良いということ、入力方式は独自のAOURにすることで落ち着くと、今度はそのキーボードをどう配置して、どう使うかということに視点が向いていくようになった。例えば、テンキーレスでもテンキーはあったほうが良く、それを左側に配置するとか、そういうことである。更には、キーボードを使わない時に、布を掛けておくか、専用のケースに収納するか、あるいは専用のカバーをかけておくか、そういう点もある。
それに加えて、キーボードを使うときに重要になってくるのが、チルトスタンドを使うか使わないかという点と、パームレストなりリストレストなりという、手前に配置する手置き台である。
チルトスタンドは、元々自分は使うほうで、キーボードに角度を付けて使っていた。これは、使わない、ほうが手首の疲れは少ないと聞いて、スタンドを立てずに使ってみることもあるが、何だか収まりが悪い。奥の段のキーを使うために指を動かす範囲が大きいような気がするのである。僅かな差ではあるが、使い比べてみるとチルトスタンドを立てて角度を付ける方が、少し好みであるし、実は配置的にも狭い場所に置いているのでスタンドを立てないと逆にキーボードを安定を失うような事情もある。
パームレストの類は、当初は本当にこれは特に不要な物という認識であったが、実際使ってみると、この重要性を感じてくる。
キーボードそのものと同じ高さの手置き台は、意外と重要だったのである。これがあることで、指の動きが自然になり、肩の疲れも軽減されて、結果として快適な打鍵ができるようになるのである。
最初は間に合わせ的に、近い家電量販店でシリコン入りの柔らかいものなどを選んだりしていて、これはこれで特別悪くないのであるが、それよりも木製のきちんとしたレストのほうが、安定感、安心感があり、手を置く台としてはより適しているということがわかってきた。比較してみた結果こっちのほうが快適なのである。
これはおそらく、手を固定できることで、ここに手を任せることができるので、肩や腕が結果的に楽になるというのがその理由である。重要なのはキーボードのキーのベースの高さに合わせること、つまり本体部分の高さに合っているかどうかという点で、これが合っていると、手置き台に手を置いたままの打鍵が最もスムーズになって、指の動きが自然になるのである。
長時間のタイピングには、おそらくこっちのほうがずっと快適なのである。
改めてマークダウン
マークダウンの記法については、かなり前からその存在は知っていた。当初はマークアップを揶揄したような記法なのかと思っていたが、Wikiのようなものでの活用や、その後利用場面も増えてきて、WZ EDITORでもそれをきちんとサポートしていたり、徐々に市民権を得てきた。
気付けば、このWordPressでもマークダウン記法で書いてそれを貼り付けたらそのまま書式に変換されるということを今頃になって知り、原稿もマークダウン記法で書くことにした。それに何より、生成AIへのプロンプト入力の際に、構造化テキストとして一番頻繁に使われるのがマークダウンということで、改めてではあるが、このマークダウン記法というものを今後は標準的に使っていくべきと思っている次第である。
これまで、プレーンなテキストファイルは、WZ EDTORが昔から「.」の個数で見出しレベルを表す構造化テキストが採用されていたので、WZ形式としてそれを標準的に使ってきた。テキストファイルにおいては今後もそれを使っていくが、グローバルな基準としての構造化テキスト用としては、マークダウンが良い。WZにおいても、「.md」の拡張子とすることでマークダウン形式は扱えるし、最近のテキストエディタではもちろん標準的にマークダウン形式が扱えるようになっている。
秀丸やサクラエディタなどは、標準でははこの書式での色分けなどには対応してくれないので、自分で見出しをキーワードとして色分けするような、そういう設定が必要になっている。これらのテキストエディタもまだよく更新されているようであるので、こういう色分けやその他マークダウンの書式へも標準で対応するか、マクロやプラグインのようなものによってマークダウン形式のテキストが扱いやすいようになることも期待したい。
尤も、内容はテキストファイルであるので、その意味ではユーザ側はその構造をマークダウンとして認識したらいいだけで、テキストの読み込みや処理に問題があるというわけではない。
生成AIにおいては、別にマークダウンを使わなくても、特に最近の生成AIは進化しているので内容は変わらず理解できるようであるが、確実に、明確に構造を示すための記法としてはマークダウンはまだ有用である。実際、簡単な記法で書けるので、HTMLなどのマークアップよりはずっと簡単であって、扱いやすい。Wikiの記法も同様のコンセプトだったことを思い出した。
マークダウンは、HTMLの記法への変換を前提としているところもあって、HTMLの各要素に対応した記法がだいたい用意されているようであるが、簡単なルールを幾つか覚える、最低限、見出し書式やリスト書式を習得するだけでも構造化テキストは概ね十分に書けるようになる。
そんなことをつい最近になって把握して、慌ててマークダウンを使い始めたところである。
AOURで18年?
ローマ字入力に代えてAOURを使うようになってから、おそらく18年が経つ。
今後ずっと、こういう方式でやっていくつもりではあったが、数字だけ見れば本当にそんなに永くずっと使ってきたのだというイメージである。
新方式・新配列に変更した当初は、この方式でローマ字入力より快適になり、ずっと使っていけるのか不安ももちろんあったが、完全に習得してしまってからは、ローマ字入力のほうが逆に不便になり、もうずっとこの方法でやっていかなければならないと考えるようになった。
とは言っても、事実上の標準の入力方式はローマ字入力なので、その入力方式もまだ忘れたわけではなく、使えている。
ローマ字入力より打鍵数は少なく、高効率で入力できることは間違いないが、万人に勧められるかというと、そうでもない。そうでもない理由は、標準がローマ字入力であって、この方式はかなりの異端であるからで、そうであることを理解できる人でなければ、使い続けることは出来ないと思うからである。
実際、ローマ字入力でもかな入力でもない入力方式を使っている人は希で、そういう人であっても標準的な入力方式は何らか使えるのが普通である。
AIとの二人三脚、そして独り言(AIで生成)
最近、自分の文章との付き合い方がずいぶん変わってきた。きっかけはやはり生成AIだ。文章を作る機会があれば、今はまずこの便利な相棒を頼りにすることが増えた。日記風の文章を趣味で書いている自分のような人間にとっても、その恩恵は計り知れない。
例えば、何か書きたいことが頭の中にぼんやりとあるとする。そんなとき、以前なら一からキーボードを叩いて、構成を考え、言葉を選び、四苦八苦しながら書き進めていたものだ。だが今は違う。ごく簡単な要点を指示して、それを膨らませてもらうのだ。
自分が行うのは、せいぜい「日記風に」「エッセイのトーンで」「だ・である調で」「1000文字程度」といった書式や出力方法、文字数などを指示するだけで、あとはAI任せである。するとどうだ。指示した要点が見事に肉付けされ、プロのライターが書いたと見紛うような、完璧な文章がものの数秒で生成されてくる。
その完成度は、ほとんどの場合、だいたい100点の文章と言って差し支えない。読みやすく、構成もしっかりしていて、何より言葉の選び方が面白いのだ。自分では思いつかないような比喩表現や視点も織り交ぜてくれる。まるで、自分の思考を遥かに超えた優秀な秘書が、自分の代わりに文章を書いてくれているようだ。
「こんなに楽をして良いのだろうか」という思いも一瞬よぎるが、その利便性には抗いがたい。何しろ、ゼロから文章を書くよりも、ずっと入力量は少ないのだ。生成AIに作ってもらうには、その「要点」を入力してやる必要はある。だが、たった数行の要点と指示で、長文が一瞬で手に入る。この効率性は、忙しい現代人にとって大きな魅力であることは間違いない。
それでも、自分は別にキーボードで文字入力をすることが苦痛なわけではない。むしろ、指先で言葉を紡ぎ出す作業は好きだ。しかし、AIがあまりにも優秀すぎるために、ついつい頼ってしまうのが現状だ。
だが、ここで一つの疑問が頭をもたげる。何だか、自分が書いた文章とは異なる気がするのだ。
AIが生成してくれる文章は、論理的で、美しい。客観的に見て、自分の文章よりも優れていることは明白である。だが、そこには自分の息づかいや、その日の気分によって生まれる言葉の揺らぎ、といったものが感じられない。それは、完璧すぎるがゆえの違和感なのかもしれない。
試しに、AIの出力結果に手を加えてみることもある。表現の一部を自分の好きな言い回しに変えてみたり、段落を入れ替えてみたりするのだ。しかし、どれだけ手を加えてみても、何か自分のものではない、という印象があるのは変わらない。まるで、高級な既製服を自分の体に合わせて少しだけ丈詰めした、という程度の感覚だ。オリジナルのデザインは、あくまでAIにある。
考えてみれば、文章とは、書き手の思考や感情がキーボードを介して直接流れ込んだものだ。言葉を選ぶわずかな逡巡や、誤字を消す間の「ふぅ」という溜息のようなものまでが、文章の「味」になる。
AIが提供してくれるのは、限りなく完璧な「形」だ。しかし、その「形」の奥にある、「自分が今この瞬間に、この言葉を選んだ」という生々しい手触りがない。生成AIの文章は確かに読みやすいし、面白い。だが、それを自分の「日記」と呼べるのか。
結局のところ、いくらAIが優秀であろうと、自分の「書きたい」という欲求を満たし、真に「自分の言葉」として残るのは、自分でキーボードで入力した文章なのだと思う。たとえ文法が少々怪しくとも、表現が稚拙で下手であったとしても、そこには紛れもなく自分の意図が反映されている。
文章を書くのは、誰かに読ませるためだけではない。自分自身と対話し、思考を整理するための行為でもある。その過程をAIに委ねてしまうと、肝心な部分がごっそり抜け落ちてしまう気がするのだ。
だから、これからもAIの便利さは享受するだろう。それは間違いない。だが、本当に心に残したいこと、自分の本質を書き留めたいときには、やはりキーボードに向かい、指一本一本で文字を打ち込むことになるだろう。
下手でも、不格好でも、結局は、自分でキーボードで入力したほうが、下手でも意図通りのものになる。そして、その不完全さこそが、自分の文章なのだと、改めてそう思うのである。
以上は、Google Geminiを使って生成した文章である。
実際、1回だけで十分に使えると思う文章になるのだが、この内容のとおり、自分の文章ではないので、違和感がある。
自分でAIを使わずに書いてみると、次のような感じだ。
最近、生成AIを使って文章を作ってみる機会が増えた。要点を指示して、それを膨らませてもらう。生成AIが得意とする基本的な作業で、そういう簡単な指示をするだけで、簡単に結果が得られるし、しかもその結果の文章は文句の付け所も思い付かないくらい、自分にとっては100点満点の文章である。読みやすく、たとえも上手で、読みやすい。本当に文章のプロが書いたような、新聞のエッセイ欄に掲載されるかのような文章があっという間に仕上がってしまう。
それはそれで面白いのだが、生成AIに指示するために要点は書くとしても、書くのはあくまで要点だから、キーボードを打鍵して書く文字の数は本文を全て書くよりも圧倒的に少ない。それに、何だか自分が書いた文章ではないことは明白なので、結果がどれだけ良い文章であっても、何だか愛着が沸かない。自分のアイディア、粗筋を元に他人が書いた文章という感じしかない。
自分はキーボードで文字を入力する作業は嫌いではない。長文も、AOURなど入力方式を変更しているおかげで大して苦にもならない。その作業の結果で生まれる文章は、たとえ他人の視点では読みにくくても、後から読み返してすぐに自分が書いたとわかるので、少なくとも自分にとってはプロに書いてもらった文章よりもずっと読みやすい。
キーボード環境
初めてキーボードに触れたのは、自分が高校生くらいの頃、ワープロ専用機のキーボードだった。その頃から、PCに乗り換えた頃までは、キーボードは本体に附属しているものという感覚であったので、あえて自分に都合の良いキーボードを選択するとか、交換するとか、そういう思いはほとんど、全くなかった。
つまり、ワープロ専用機やノートPCでは本体に組み込まれていたキーボードを使ったし、PC-98やFMVでは附属してきたキーボードをそのまま使った。その後、自作PCではFMVのUSBキーボードを流用して使ったが、その頃はとにかく使えれば何でも良かった、入力さえできれば何でも良かったので、特にそれで不満を感じるようなこともなかったわけである。
PCのパーツショップや、家電量販店でも外付けのキーボードが沢山種類が置かれているのも知り、当初はこれは自作PCで自分でキーボードを選ぶ人のためのものだと思っていて、これも特に手を出すことなくスルーしていたのであるが、ノートPCでも外付けでそういうキーボードを選んで使うことが出来るのだと知って、一気にキーボードに対しての興味が湧いてきた。それが、だいたい20年ほど前である。
打鍵感に拘って、様々なメカニカルキーボードなども使ってみて、最終的には東プレのRealforceが良いと思うようになった。
キーボードに拘ると、入力方式にも拘りたくなって、それまで使っていたAZIKから、最終的にはDvorak配列ベースで拡張定義も取り入れた独自の方式を他の先行入力配列を参考にしながら定義して、そんなとにかく特殊な方式を使うようになった。それも、17・8年になる。
そんな風に色々拘っているうちに、自分のキーボード環境のスタイルがだいたい定まってきた。
たとえば、Ctrlキーの位置はAの横だ。
これは、PC-98の時に使っていたキーボードがそうなっていたことに起因するかもしれないし、それに合わせてAの横の位置に何らかカスタマイズして使っているうちに、その位置でなければ不便と感じるようになったからなのかもしれないが、とにかくCtrlはAの横という自分のスタイルが定着して、ソフトウエアやレジストリで標準位置から変更したり、最初から、ハード的にその位置にCtrlキーを設定できるキーボードを選ぶようになった。
また、入力配列はUS配列だ。
和文入力を専ら行う場合、ほとんどの人はJIS配列を推奨するのだと思うが、自分はUS配列である。一言で言えば、配列のバランスが良く、指の動きもより自然で快適だからである。JIS配列で無ければ、IMEの切り替えその他、不便なことが多いように思われがちだが、切替キーは自分で定義して使いやすいようにするので問題ない。かな刻印の有無ではないのである。
これらの他にも、東プレ、Realforceの静電容量無接点の静音スイッチ、押下圧は30gが良いとか、最近ではキーボードの手前には木製のパームレストを置くと快適だとか、そんなことにもなって、自分のキーボード環境はかなり一般的・平均ではない選択肢となっている。
実際、それが快適である。
振り返ってみると、最初にキーボードに触れたときの、文字入力の感覚の快適性にやはり引きずられている気がする。ワープロ専用機の、キーボードである。決して打鍵感が最良だったというのでもないが、複雑な配列のキーを打鍵して、任意の文字が入力できるという衝撃は、そのためにキーボードの、入力の環境に拘って快適性を追求するという、今の姿勢へと繋がっているのである。
Realforceに至る
子供の頃、作文など自分が書いた物が学校の通信などに掲載されることになって活字化され、印刷され、出版されるのは嬉しいことであった。
そんな思いから、それを実現するための事務用機器には一定の思いがあり、ワープロ専用機の時代、それが自分で好きにできるということで一気に興味が高まった。印刷物だけではなく、自分が入力した文字が画面上で、デジタルでも表示できて、それがフロッピーディスクに保存されて何度でも再生できるし、コピーもできるということもまたその興味を助長した。
その際の入力のインターフェースがキーボードであったので、自然とキーボードによる文字入力についても拘りが生じてきた。
入力に関するスキルという点では、ブラインドタッチである。ローマ字入力を覚えた後は、他人がスラスラとブラインドタッチをするのをみて、本当にキーボードを見ずに入力する技術が、その職業のプロでもない人でもできるのだと知り、やがて自分も習得することになる。
キーボードを見ないということはよそ見しながら作業が出来るのだと思っていて、それは間違いは無いが、画面を見ていないとおかしな変換になるので、他の作業と併用できる技術というのは考えが違った。
ワープロ専用機と、PCに乗り換えてしばらくは、キーボードのハード的に拘ることはほとんど無かった。と言うのも、ワープロ専用機、ノートPCではキーボードは本体に組み込まれているものを使うし、デスクトップ機であってもキーボードは本体購入時に附属してくるものを使う、それ以外の選択肢を知らなかったのである。従って、入力しにくい環境であっても、せいぜいキー定義を一部入れ替える程度のことはするものの、それ以上のものはなく、与えられたハードを何も疑問も持たずにずっと使っていた。
ノートPCでもUSB接続で外付けキーボードが使えると知ってからは、近くの量販店でも売られている一般的なキーボードに始まり、ネットや大型量販店でしか入手できないメカニカルなどの高級なキーボードを色々試すことになり、結果的にはRealforceやHHKBが良いということになった。
Realforceは高価だが、国産で品質が高い、耐久性が高い、デザインがシンプルなどが自分にとっては良いところで、この良さを知ってからは基本的にずっとRealforceを使っている。
最初はUS配列テンキーレスの変荷重のモデルに始まり、黒配色モデルが出たりR2やR3が出たりして、静音モデルやAPCの付いたモデル、テンキーもRealforceにしたり、75%のRC1では初めて30g押下圧モデルを使ったりと、とにかくずっと、Realforceである。
Google日本語入力
かつてIMEは複数の種類があったが、ATOKとMS-IMEくらいしか選択肢がない状態が続いた。IMEは大掛かりな仕組みで、簡単に開発できるようなものではないと思っていたが、2009年頃に、Googleから日本語入力、IMEが提供されるようになった。
最初は本当にこれが実用的なのかと半信半疑な部分もあったが、既存のIMEに十分匹敵する優秀なIMEで、やがてローマ字カスタマイズの機能も使えるようになって、自分の新配列AOURも実装できてしまった。このIMEで他の新配列を実装している人も多く、G-ACT10などは、Google日本語入力の機能に合わせて開発されたものもある。
かつては、Windows環境でももっと多くのIMEがあった。VJEやWXGなど、Windows版に移植された松茸もあったはずだ。たくさんのIMEがあればそれで競争になるし、中には変換精度やカスタマイズ性が優れたIMEも出ていたかもしれないのだが、今は選択肢が少ない。
MS-IMEは標準的だが、AOURはほぼ実装できない。そういう特殊な配列を実装するのが目的というわけでもなく、そんなことをしないほとんどのユーザは、それは比較対象のポイントにならないと思うが、それでも自分はその点が重要で、Google日本語入力のカスタマイズ性はATOKを凌駕しているので、新配列を(ローマ字入力のカスタマイズで)実装するという場合はGoogle日本語入力が良いと思う。
ATOKのプロパティ
ATOKは高機能なIMEであるので、環境設定ができる項目も他のIMEに比べてずっと多い。
特に辞書は複数の辞書、用例や省入力データなども自由に組み合わせられて、その関連での設定はやや複雑と思えるほどである。
基本的には初期設定のままで問題ないが、自分は次のように設定を変更している。
たとえば、テンキーからは半角数字で入力されるように固定、スペースは常に半角スペースで、Shiftキーを押下しながら打鍵した時に初めて全角スペースが入るようにしている。変換補助項目では日付の書式を追加したり、カーソル位置の入力モード表示を簡易なものに、入力支援は邪魔になるので無効にして、句読点変換を有効に、確定履歴はメモリに保存をして必要以上に学習されないように、省入力データや連想変換も使わなそうなデータは変換に用いない、候補ウィンドウの選択キーを英字にすることもある。以上は入力・変換のタブから設定する。
辞書・学習の設定タブでは、辞書セットに自分が使う変換辞書(単語登録をするユーザー辞書とは別に)を組み込んでいるほか、単語の自動登録設定では必要以上に勝手に登録されないように、一時登録の設定をしている。
このほか、校正支援タブやパレットタブで、必要に応じて設定を見直し、キー・ローマ字・色のタブから設定出来るスタイルでは、キー入力をUS配列用にカスタマイズしているほか、ローマ字設定はAOURの定義に置き換えている。この部分の変更はかなり大きいが、スタイルファイルのインポート・エクスポートが可能である。
このほかにも電子辞書検索とインターネット設定のタブがあり、これら各タブの全ての設定が「プロパティ」のセットとなっていて、これも書き出しや読み込みが出来たりする。
設定の引越。つまりはPCを乗り換えたりする場合は、これ毎書き出しをすると移行できるのだと思うが、ATOK Syncがあるので、それで設定が自動的に引き継がれる。
それでも新PCにATOKを導入する時などは、一応辞書とスタイルファイルは一旦書き出しておいて、設定反映のバックアップとしている。
調子の悪いRC1?
何だか、Realforce RC1の調子が悪くなったようだ。メカニカルキーボードのチャタリングのような、同じ文字が連続して何個も勝手に入力されたり、Enterキーが勝手に何度も連続で押されたりするような減少が発生するようになった。
最初は、おそらくBluetooth接続が原因なのではないかと思ってみたが、結局有線接続状態でも発生するので、キーボード全体の調子が悪くなったのかもしれない。まだ購入後1年程度であって、そもそも信頼性の高いRealforceなのに、こんな現象になるのはよろしくない。
BT接続の調子が悪くなる要因としては、2.4GHz無線の機器がそばにあったりすると、そうなることがあるようなのだが、マウスが影響しているのか、いや、何よりこの環境で最近まではそのようなことは起こっていなかったので、やはりその原因は理解できない。
つなぎ直せば、しばらくは起こらないような感じもあるので、時々接続をし直す、面倒な作業をしなければならないのであろうか。
そのようなハード的な故障ではなく、Windows Updateなどで仕様が変わってしまい、それに対応できなくなったというような要因も考えられなくも無い。
と思ってほかのキーボードを接続したりしてみたら、調子が悪いのは結果的にRC1ではなかった。
RC1の有線接続でもHHKBでも同じ現象が発生し、Windows側のキーボードドライバか何かの調子が圧倒的に悪いということがわかった。ドライバを更新しても同じ。削除して再起動して再インストールしてみるが、状況は改善せず、これではほとんどキーボードが使えないかと思うくらいである。
はっ;;;;性。塚井う゛ぁいう゛ぁいう゛ぁいっすあずいめつうううかいは日図氏いいいいいいいいいいいいいは見てえっ津ゼイゼイゼイゼイゼイゼイ稲婦警得使い物にいいいならない。
何かを書こうとしてもこんな風に入力されてしまうのであるから。
有効な対策が思い付かない。ドライバの違いもあろうかと思って、少し前の、R2世代のRealforce、PFU Limited Editionを引っ張り出してきて接続して様子を見てみる。これで問題が無いようであれば、しばらくこれを使うことにするか。
と思って、R2のPFU L.E.キーボードを接続してみたら、ひとまず、何となく、問題無さそうである。このまま問題ないとすると、どうしてRC1やHHKBだけおかしくなったのかが全くわからないということになる。数日前までは全く問題なかったのであるが、一体これはどういう原因なのか。OpenTTDの新バージョンをインストールしたから、というのはナンセンス過ぎる。そして、R2で問題が生じない状態になって見てみれば、RC1でも症状が治まっている。
ただ、原因不明なのでまたすぐにそういう状態が起こりうるかもしれない。
R2のこのキーボードもまた、まだまだ快適であるので、当面はこれをここに配置して、併用して使って様子を見ることにした。