気に入った万年筆をスーツのポケットに挿して携行しているときの高揚感はどこから来るのかと考えてみると、そういうものを自分の肉体の近縁、自分の縄張りの中に置いているという充足感からではないのかと思う。
そもそも今の時代、筆記具を持ち歩く必要なんてあるのか。出先で署名とか書類への記入などを求められる際には、たいていその相手方がボールペンなどを用意してくれているのが普通だ。郵便や荷物を自宅で受け取る際だって、署名をするのは配達員が持ってきたボールペンである。会社に行けば備え付けの筆記具があるし、通勤などで出歩いている途中で筆記が必要になる場面はまずない。
文書の作成などもパソコンのソフトで行ってプリンタで出力するのが当たり前で、そういうことからしても尚更、筆記具を持つ意義は薄くなってきている。
日常生活においては、筆記具を持ち歩くどころか、特別所有していない場合でも、ひとまず何とかなるのである。
それでも、手帳やノートへの記入、手紙や年賀状、文芸作品などの創作、絵描き、メモ、書類への付記など、筆記具で手書きをしなければ意味がなかったり、常識的にも手書きをすべき場面はそれなりにあり、筆記自体が必要がなくなっていくというものではない。
気に入った、自分の特有の筆記具を持っているということは、周りで薄れていく筆記の必要性の中では逆に強い自己主張となる。
筆記するということは、自分の意志を目に見える形で表現する手段でもあり、出来事を忘れないように記録しておく基本的な手段でもある。紙があっても筆記具がなければそういうことはできないし筆記具だけあっても同じなのであるが、そういう自己表現と記録を行うための道具が、いつでもさっと取り出せるポケットに入っているのは、なんとも言えない安心感があるとも言える。
そういう安心感は、今の世代ではスマホがそれに取って代わるのだろうか。
それがあれば、ひとまず他人と繋がることができる。わからないことは調べる手段でもあり、道に迷っても解消する手段でもある。カメラやレコーダで録れば記録手段にもなるし、何らかの翻訳機能でコミュニケーションを取ることも多分可能だ。役割とできることは違っていても、それを持っていることでの安心感という点では似たようなものなのだろう。
ポケットの万年筆を時々確かめながら、今日は、そんなことを考えつつ徒歩で帰宅。