雑記2610

投稿者: | 2026-10-27
Geminiに作らせた画像

2608用のテキスト、つまり8月更新用として書き始めたが、それから2ヶ月も経って、10月末になってしまった。ここらで更新しておくことにした。今回からはAI作成の文章部分が増えている。

ATOKの学習情報

IMEには普通学習機能がついていて、変換した語を優先候補に持ってきたり、変換した関係の語が優先して変換されるようになっていたりする。
しかし誤った変換が学習されてしまうと、以後その誤候補が常に上位に表示されてしまったりして、とても面倒なことになる。
しかも、この推測変換に出てくる候補が、消せない。学習情報をクリアしても、ATOK Syncのサーバーデータをクリアしてさえ、消えないのである。

AZIKの頃から

あるときローマ字入力の拡張入力方式、AZIKを知り、それを使うようになった。通常のローマ字入力配列は基本的にそのままに、二重母音や撥音節にキー定義を割り当て、打鍵数を減らして和文を入力するという方式である。
ATOKのローマ字カスタマイズで実装する方法も見つけ、ATOKに導入してそれを使うようになった。2002年頃から概ね5年間程度、それを使った。打鍵数が減ることによって、入力速度は向上し、最大で1600字/10分程度までのスピードが出るようになったようだ。

この環境も快適だった。普通のローマ字入力の知識はそのままに、それに拡張入力の定義をいくつか覚えるだけで、確実に速度が向上したのである。
ずっとそれで、しばらく使っていたが、同じ考案者の先生がすでに別の、もっと良い方式というのを考案していて、それがDvorak配列をベースにしたACTだった。配列が全く違うなら習得にはハードルが高いと思っていたが、ずっと興味は持っていて、よくその理論を知れば知るほど、何とか実装して使ってみたくなった。Dvorak配列ベースで、母音が左手側に集中するので、拡張定義のルール化も覚えやすいものにできるのである。
かつてワープロ専用機の頃の書籍で知った、SKY配列のような要素も多くあった。

そのACTを、同様にATOKのローマ字カスタマイズで実装するのは困難だった。ATOKのローマ字カスタマイズの制約が大きい。そっくりそのまま、実装するのは無理だと思った。
ならば、その無理な部分を代替方式にしても、何とかこのDvorak配列ベースの入力方式、拡張入力を実現できないかと、考案したのがAOURである。基本となる二重母音や撥音節の拡張を付け、さらにACTやほかの同種の入力方式を参考にして、拡張定義を追加し、結果的に概ねオリジナルの入力方式ができあがっていった。
それが、2007年の初頭頃で、それから自分はローマ字入力とはしばらく併用しつつ、ある程度普通に入力ができるようになった時点で、完全にAOURに移行して、ローマ字入力はそのままつかえるものの、普段は使わずにAOURだけで作業ができるようになった。

それから、速度はすこしずつ向上しつつも、環境がかわったり、15年も20年も経てば加齢による入力動作の変化などもあって、ローマ字入力・AZIK最速字の1600字には達しないものの、1400字程度までの速度では入力ができるようになっている。

もっと元をたどれば、自分はずっとローマ字入力を使っていて、JISかな入力は最初にキーボードを覚えたときに少しだけ使った程度で、ほとんどその入力方式はできない。ローマ字入力をすることに抵抗もなかったし、そもそもローマ字で和文を書くことは得意であったので、願ったり叶ったりの入力方式を知ることができて、ずっとそれを何も疑わずに使っていた。
それ以外の方法にすることも、PCなら可能とは思っていたが、何かとても複雑な仕組みが必要になるのだろうと思っていて、なかなかその分野に入れなかったのである。

AOURにしてからは、当初はローマ字入力よりもずっと入力効率の良い方式を手に入れた、という思いがあったが、打鍵数を減らせることで、かな入力には及ばないものの、ずっと楽に入力できる方式だと思って、ずっと使い続けている。

タイピング速度

Geminiに、タイピング速度を計測してもらう簡単なWebアプリを作成してもらった。AOURのサイトにリンクを置いた。
短い課題文か、あるいは自由に文字入力をしてもらって、それを10分換算で何文字になるか計算して出してもらうというものである。自分ではコーディングはできないが、そんなに複雑なことをさせているものではない。このようなツールが簡単にコーディングできてしまうのだから、やはりAIの活用で作業は激変する。

自分は、記憶にある、過去の計測速度によれば、AZIKを使うなどしていた頃は最速で1600字/10分で打鍵できていた。それが20年くらい経って、AOURでは、実際に10分程度のタイピングをして換算してみたところは1300~1400字/10分というスピードであった。
今回、このWebアプリで計測したところ、見本を見て入力するタイピングでは、1200から1300字で、自由文入力によれば、1600から1700字の速度が出るので、まあそんなに速度は落ちていないと思われる。無論これは、それ用に作業や自分の具合をチューニングしたら、さらに高速な結果が出るかもしれない。

ただ、実用上は、1000字も入力できれば基本的に十分過ぎるくらいで、もっと遅く、500から600字でも実務では特に問題ではない。それよりも正確性が求められる。

文書データの保存

PCを始める以前のワープロ専用機の頃、作成したデータの保存先は専らフロッピーディスクで、そもそも、それ以外の保存先というのがなかった。当時のフロッピーは2DD、640KB程度の保存容量。確か30ほどの文書ファイルしか保存できなかったはずで、何枚ものディスクに分けて保存していた。当時は皆それが普通だった。フロッピーディスクがケースごと何枚も保存できるケースも用意して、そこにため込んでいた。それがまた、そういうライブラリが手元にあることが面白かった。

PCになってからは大容量のハードディスクになったので、ワープロから変換したデータも含めて、そこに保存した。Cドライブはシステムドライブ専用として、あえてパーティーションを分けたりして、Dドライブに保存したりもしたし、そのバックアップは、CD-Rだったりした。まだクラウド保存など考えられない時代で、さらにはまだ外付けディスクやUSBメモリなんかも一般的ではないような時代だった。

やがて、そういう様々なメディア、フラッシュメディアも使われるようになったが、どうにもこれは、自分としては保存媒体というイメージがわかなかった。フロッピーのような、ある程度の大きさとか、規格化された、統一化されたサイズになっていないということがあるかもしれない。
その頃も、依然としてハードディスクがその保存先で、DVD-Rとか、あるいは外付けのHDDにバックアップを取っていたりした。
そのうちに、PC自体も複数のマシンの環境を使うようになったので、データの共有ということも必要になり、そろそろクラウド保存という選択肢も出てきたが、自分はNASを使っての共有をするようになっていた。外の、外部のサービスにデータを預けてしまうことにはまだ不安があったからである。

そんな状況は結構続いたが、やがてクラウドのサービスもずっと一般化して、それが基本的に、当たり前になってくると、いよいよ自分もそういう文書データをクラウド保存するように、それがメインのデータ保存先となった。プライバシーのあるデータについては、暗号化したりパスワードで保護をかけたりすることはそもそも行っていたので、まあ基本的には問題なかろうと考えた。
GoogleドライブやOneDriveなどを使いつつ、レンタルサーバー領域の活用も考えてプライベートクラウドとしてNextCloudを使うようにもなったが、自分でシステムそのものの管理が必要なのはやはり大変で、サーバー運用の専門的な知識も必要で、結局今はGoogleドライブがメインになってしまっている。容量も十分にある。

Googleドライブは、おそらく最も一般的なクラウドのドライブサービスの一つで、Googleドキュメントなど、クラウドのOfficeスイートもあって、もう基本的に全部クラウド管理でも良いようなことになっている。今ではMS-Officeもそういう仕組みが基本になっていると思われる。機能も豊富で、それらデータファイルは、逆に、定期的にローカルにもバックアップを持っているようにすることで、少なくとも問題なく運用はできるのだろうと思っている。
PC間での共有も、クラウドなので無論問題なくできる。いちいちアップロード操作をしなくてもアプリを使えばローカルのファイルのごとく、シームレスな運用も可能である。
そのような高機能な環境があれば、ローカルでファイルを管理するよりも当然に高度なことができるので、今後の標準的なスタイルになっていくのであろうと思われる。

Officeのアプリ、いやそれ以外のアプリに関しても、かつてはローカルのPCにインストールしてそれを使うのが当たり前だったが、今はむしろクラウド側にあるアプリを使うのも一般化してきている。
こういうのが出てきた当初は、ローカル側で動くアプリには遠く及ばないと思っていて、今でもその違いは多少あるものの、その違いを理解さえすることで、すべてクラウド側にデータもアプリも依存して運用することも可能となっている。
当初は、有償有料のOfficeアプリがこのようにフリーで使えるには何か裏のからくりがあるのだろうとずっと思っていたし、ブラウザだけでこんなにきちんと動作するのだということも信じられなかったものである。MS-Office互換のアプリがこんなに増えているということにも驚きはある。

ワープロソフトに関しては、また別に特別な思い入れがある。ワープロ専用機から一太郎に乗り換えてしばらく使い、Wordに移行した時期もあるが、再び一太郎を使っている。一太郎はクラウドに依存するアプリではなくローカル側で使う従来型のアプリではあるが、その分高度なことができるし、何より自分の標準となっているので、これはこれでまだずっと使っていくのである。ただ、一太郎に関しては、データファイルはクラウド保存することは問題ないが、MS-Officeのアプリデータのようにクラウド側での編集ができたりするような互換性はないので、その点はやはり従来の感覚で使い続ける必要はある。

テキストファイルに関しては、どのようなアプリでも使えるし、もちろんクラウド保存に関しても何も問題はない。自分は依然としてテキストエディタも使うので、これが標準である。テキストエディタのアプリも、オンライン側、クラウド側、特にGoogleのサービスとして高度なテキストエディタで普通に和文が扱えるようなツールは用意されていないので、エディタも一太郎同様にローカル側で用意して使う必要がある。

かつては、クラウド保存はセキュリティの問題だとか、ネット環境の依存の問題だとか、保存容量の問題だとかという心配な点も多かったが、今ではそのような状況も払拭されて、おそらく今後は自分もこの方式を標準的に使っていくということになる、そんなつもりである。

PCスピーカー

PCからの音声は、ずっと以前のPC-98の頃は、本体からのモノラルスピーカーで足りていた。むしろその時代は、動画などのコンテンツは少なかったので、PCでそのようなコンテンツを視聴する機会自体が少なかったのでそれで間に合った。
その後、ゲームの音声や、ネットでの動画が一般化してきたことで、その後に使うようになった富士通PCでは、デスクトップ機に専用の外部スピーカーが付属していた。スピーカー部分は、板状の伝振動スピーカーというのか、簡易な物ではあったが、ちゃんとそれで音は出ていた。

その後、PC用としてSONYのアクティブスピーカーに変えて、それを何世代か使い、ヨドバシで気になっていたPC用の最高峰という、BOSEのCMMを、2009年頃に買って、今もその流れでBOSEのスピーカーをPC用のスピーカーとして、ドックに接続して使っている。
つまり、イヤホンジャックに接続する、アナログ方式のスピーカーということである。
一時期、USBオーディオのものを使ってみたりもしたが、機器が増えてなんだか面倒くさい。直結で基本的に問題ない。ノートPCだと本体からも音は出せるし、モニターにもたいていスピーカーは組み込まれているのであるが、それだと物足りない。BOSEのCMMやCompanionシリーズのスピーカーをずっと使っているのである。

今は、その後継となる機種はBOSEでは、そのものというのがない。スピーカーは全部Bluetooth接続のものになってしまって、これは接続が面倒であるし、微妙な遅延もあるように感じて気になる。こういう機器はやはり有線接続が良い。

キーボードによる打鍵(AI修正)

文字入力はキーボードを使うのが当たり前になった。ワープロやパソコンが普及する以前は、そんなことは誰も想像しなかったかもしれない。キーボードで文字入力をするのは、専門職の人だけだと思われていたかもしれない。だが、ワープロが普及して普通の人も文字入力はキーボードで行うのが当たり前になってからは、さらにパソコンがジムにも普及してからは、これが当たり前になっていった。
無論、手書きという方法がなくなった訳ではないが、公式な文書類の分野では、キーボードによる文字入力のほうが一般的になった。

そんな時代がずっと続き、そのうちにタブレットの画面のキーボードだとか、スマートフォンのフリック入力なんかも一般的になってきて、特に若い世代の人はキーボードよりもフリック入力のほうが得意という人たちも現れるほどになっても、それでもまだキーボードによる入力は基本であり続ける。
文章の作成は、生成AIに任せられるようにもなってきたが、そのプロンプトでの文章入力はやはりキーボード入力が基本であり、キーボード入力は依然として欠かせないスキルと言って良い。
自分としては、自分が書く文章としては生成AIはできが良すぎるので、手書き入力のほうが良い場面も少なくない。

そんな時代を想像していたというわけではないが、自分はキーボード入力は今後の文字入力の基本になるとも思って、あるいは単に興味があって、学生の頃にキーボード入力をきちんと習得した。ブラインドタッチもできるようになって、手書きよりもキーボードでの入力のほうがずっと得意になった。後で、手書きもまた見直すようになるのだが、それはまた別の話である。

そういう風にキーボード入力に興味を持てば、自ずと、キーボードの性能にも興味を持つようになり、高耐久、高性能なRealforceを使っていたり、あるいは入力方式を自分で考案してローマ字入力とは異なるAOURにしてみたりと、やるに事欠かないくらいにキーボード入力を楽しんでいると言っても良いくらいだ。
それでも、やはり最近では生成AIが何でもやってくれるので、文章を書く機会も少しは減ってきている。
自分で文章を書くという作業から、文章を書かせるための指示文、つまり生成AIに入力するプロンプトを書くという作業が、それの中心になってきているような気もするのである。

と、ここまで書いて、ここまでの文章を生成AIで綺麗にしてもらうことにする。

文字入力においてキーボードを使うのが当たり前になって久しい。ワープロ専用機やパソコンが普及する以前は、そんな日常が訪れるとは誰も想像していなかったかもしれない。かつてキーボードで文字を打つというのは、ごく限られた専門職だけの技能だと思われていた節もある。だが、ワープロが普及して一般家庭や事務の場でもキーボードによる文字入力が定着し、さらにパソコンが広く行き渡ってからは、これがごく自然な日常の風景となっていった。

手書きという手段が完全に廃れたわけではないにせよ、公式な文書や事務的な作業の領域では、キーボードによる入力こそが標準となったのである。
そうした時代が長く続き、やがてタブレットのオンスクリーンキーボードやスマートフォンのフリック入力が普及していった。特に若い世代ではキーボードよりもフリック入力のほうが得意だという向きも現れるようになったが、それでもなお、本格的な文字入力作業における基盤はキーボードであり続けている。

近頃では文章の生成そのものをAIに委ねられる場面も増えてきたが、その指示を与えるためのプロンプト入力はやはりキーボードが担っているわけで、依然として欠かせない基本スキルと言って良い。もっとも、自分としては、生成AIの出力する文章は時に出来が良すぎるように感じることもあり、場面によっては手書きで思考を巡らせるほうがしっくりくることも少なくない。
将来そうした時代が来ることを見越していたという大層なわけではないが、自分自身、キーボード入力はこれからの文字書きの基本になるだろうという予感や、単純な知的好奇心もあって、学生時代にしっかりと打鍵を習得した。ブラインドタッチが身につくにつれて、手書きよりもキーボードで入力するほうが格段に得意になった。後年になって手書きの良さを再認識するようにもなるのだが、それはまた別の話である。

そうしてキーボード入力への関心が深まれば、自ずと道具としてのキーボードそのものにも拘りを持つようになる。高耐久で極上の打鍵感を備えたRealforceに行き着いたり、あるいは入力効率を突き詰めてローマ字入力とは異なる独自のAOUR方式を導入してみたりと、文字入力を楽しむという点においては事欠かない日々を送っている。
それでも最近は、生成AIの進化によって自ら長文をゼロから書き下ろす機会は幾分減ってきた感もある。自ら文章を紡ぐ作業から、意図した文章を出力させるための指示文――すなわちAIへ入力するプロンプトを練り上げる作業へと、その中心が少しずつ移り変わってきているような気もするのである。

良くなった。
これはGoogle GeminiのGemに、自分風文章を学習させたスキルというのか、土台を作って、そのGemに、文章の原案を投げて自分風に修正してもらったのである。

要点生成

次の要点・サマリーを与えて、自分風の文章を書いてもらう。

次のサマリーで、過去例を参考に適度な長さのブログ風・エッセイ風文章にしてください。

  • AIがここまでできると、人が書く文章というのは、今後は全部AI任せになっても良いのではないかと思うこともある。
  • でも、人が書く下手な文章こそ、AI感のない文章こそがむしろ貴重になるのではないか。
  • 手書きからキーボード入力へ移行する時期に危惧されていたのは、漢字を忘れるとか字が書けなくなるとか。それがAI化の今なら文章が書けなくなる、という危惧。
  • AIは進化して、書き手の文体を忠実に再現もできるようになっている。下手な文章も、多分書ける。
  • 良い物も悪い物も、書き手が意図する正解の文章はそれで十分に書けるようになったが、キーボード入力で苦労して書いて自分で推敲するのもまた楽しみだったので、寂しい。
  • ただしAIを使うか使わないかは、依然としてユーザの判断の中にある。

書くこととAI

生成AIの技術がこれほどまでに進歩してくると、人が手を動かして書く文章というものは、もう今後はすべてAI任せにしてしまっても良いのではないか、と思える場面も少なくない。実際に様々な場面でAIを活用してみると、要約や構成の整理はもちろんのこと、ごく自然な日本語の文章をいとも簡単に組み上げてしまうのには驚かされるばかりで、もはや人間が時間をかけて文章を練り上げる必然性そのものが薄れてきているようにも感じられる。

だがその一方で、人が書く少し拙い文章、洗練されきっていない下手な文章や、いわゆる「AI感」のない文章こそが、今後はむしろ貴重なものとして扱われるようになるのではないか、とも思えてくる。整いすぎた論理や無駄のない文体ばかりが溢れる世の中にあっては、思考の揺らぎや独特の癖がそのまま残ったような文章のほうが、書き手固有の体温のようなものを感じ取ることができるからである。

思えば、手書きからワープロ専用機やパソコンによるキーボード入力へと移行していった時期にも、似たような議論があった。「キーボードばかり使っていると漢字を忘れてしまうのではないか」「自らの手で字が書けなくなるのではないか」といった危惧である。実際、変換キーを押せば正確な漢字が出てくる環境に慣れてしまうと、紙とペンを渡されたときにふと漢字が思い出せなくなるという現象は現実に起こったわけであるが、それが現代のAI化の時代においては、「人間が文章そのものを書けなくなるのではないか」という危惧へと置き換わっているように思う。

現在のAIは急速に進化を遂げていて、プロンプト次第では書き手の文体や癖を忠実に再現することさえ可能になってきている。恐らく、人間が書いたかのような、少し崩した下手な文章であっても、指示を与えれば十分に模倣して出力できてしまうのだろうと思う。良い文章であれ悪い文章であれ、書き手が頭の中で意図している「正解」の文章は、AIを使えばあっという間に形になってしまう時代になった。

道具としてこれほど便利なものはないと納得する反面、個人的には少しばかりの寂しさも覚える。キーボードの前に向かい、指先でキーを打鍵しながら、時に言葉に詰まり、試行錯誤して自分で推敲を重ねていく――あの時間そのものが、文章を書くという作業における大きな楽しみであったからである。思考と打鍵が一体となって画面の上に文字が紡ぎ出されていく過程には、結果として仕上がるテキスト以上の充足感があったように思う。

とは言っても、そうしたAIの技術を実際に使うか使わないかという選択は、依然としてユーザ自身の判断の中に委ねられている。何でも効率化してAIに任せてしまうのも一つの選択肢であれば、あえて手間をかけて自分の手でキーを叩き、下手なりに推敲を重ねる楽しみを手元に残しておくのもまた、個人の自由な判断なのである。

……。以上AI生成。これで良いです。

文章の書かせ方

  • 生成AIを使って文章を書いてもらうことは一般化しつつある。今後、それがむしろ標準的な方法になっていくかもしれない。子供が学校で学習する作文の能力がどうなるのか、それはまた別の心配である。
  • ともかく、一応文章を書いたり推敲したりできる大人は、生成AIをうまく活用して文章を書く能力が求められる。
  • 生成AIに文章を書いてもらうには、プロンプトでの指示が必要なのは承知のとおり。
  • 文章の内容や分量のほか、形式やトーン、文体などを指示するのが一般的。だが最新のAIは、そういう部分も適切な物を予測して作ってくれる。
  • ユーザの文体や文章の癖を、参考資料(RAG)から学習して、ユーザ風の文章を書いてくれることも可能になっている。
  • テーマだけ与えれば、それなりのものができる。サマリーを与えれば、もっと意図に近いものができる。下手でも自分で書いた文章を与えたら、それをより良く修正して、いずれも完成品を作ってくれる。
  • それでユーザが納得できるものができるなら、それが一番良い成果である。

生成AIを使って文章を作成してもらうという作業は、ここ最近で急速に一般化しつつある。仕事の連絡文や報告書の作成はもちろんのこと、今後はブログや様々なテキストの作成においても、AIに下書きや清書を任せるのがむしろ標準的な方法になっていくのかもしれない。
これだけ手軽に一定水準の文章が組み上がってしまう時代になると、将来的に子供たちが学校で学習する作文や記述の能力そのものが、生成AIの一般化によって次第に必要性が薄れ、もはや実社会では必要性に乏しい能力だと見なされてしまうような時代になりはしないか、という点は、それはそれでまた別の危惧として頭をよぎる部分ではある。

ともかく、すでに一通りの文章を書いたり、自分で推敲したりする経験を積んできた大人の側からすれば、これからは生成AIをいかに上手く道具として活用し、意図した文章を効率的にアウトプットさせるかという能力こそが求められるということになるのだろうと思う。

生成AIに文章を書かせるにあたっては、プロンプトによる的確な指示が欠かせないということは周知のとおりである。普通は、文章の内容や分量の指定に加えて、文章の形式、トーン、あるいは「だ・である調」や「です・ます調」といった文体などを事細かに指示するのが一般的であった。しかし、最新のAIモデルを見てみると、そうした細かな前提条件をわざわざ人間が一から指定しなくても、文脈や入力された断片的な言葉から意図を適切に予測し、過不足のない形で仕上げてくれるようになってきている。

さらに進化しているのは、書き手固有の文体や文章の癖を、参考資料や過去ログといったデータ(いわゆるRAGなどの仕組み)から学習させ、いかにもそのユーザ本人が書いたかのような文体で文章を再現することさえ可能になっている点である。

大まかなテーマだけを投げればそれなりの体裁を持ったものが出来上がるし、要点やサマリーを与えてやれば、より意図に近い文章が即座に出力される。あるいは、たとえ拙く下手であっても、自分が手作業で入力した下書きのテキストをそのまま与えれば、その意図を汲み取ってより良い表現へと修正し、いずれの場合であってもあっという間に完成品まで仕立て上げてくれるのである。
道具としてこれほど便利なものはない。プロンプトや元データを与えて試行錯誤した結果として、最終的にユーザ自身が納得できる文章が出来上がるのであれば、それこそが最も効率的で良い成果ということになるのであろうと思う。

鉄フライパンと8ヶ月

鉄フライパンと8ヶ月
鉄フライパンを使い始めて、概ね8ヶ月ほどが経った。
最初はテフロン加工のフライパンとの勝手の違いに戸惑うこともあったが、日常的に使い込んでいくうちに、この道具の扱い方というか、使いこなすための勘所のようなものが次第に見えてきた。

結論から言えば、鉄フライパンをうまく扱うためのコツは、「油のコントロール」「火加減のコントロール」、そして「フライパンのメンテナンス」という3つの要素に集約されるとわかってきたのである。

世間一般で広く普及しているテフロンなどのフッ素樹脂加工のフライパンであれば、油を引かずに調理することさえ可能である。しかし、鉄フライパンにおいては油は必須である。油分の過剰摂取や健康への影響を気にする向きもあるかもしれないが、油自体も人間にとって必要な栄養素の一つであるし、何より鉄フライパンにおいては、鉄の表面にある微細な凹凸に油を馴染ませて酸化皮膜を形成させなければ、道具としての真価を発揮できない。

その皮膜をしっかりと機能させるためにも、調理前の予熱は欠かせない工程である。鉄フライパンはしっかりと温めてから油を馴染ませる必要がある。ただし、早く温めようとしていきなり強火にかけたり、急激な温度変化を与えたりすると、金属が熱応力に耐えきれずに底面が歪んでしまう原因にもなるので、このあたりの扱いは少し丁寧に行う必要がある。

調理前の準備として特に良好な状態を作り出せるのが、いわゆる「油返し」である。フライパンを温めた後、少し多めの油を注いで全体に熱を行き渡らせ、余分な油をオイルポットなどに戻す。その上で調理に必要な油を改めて引くわけだが、このひと手間をかけるだけで、鍋肌に理想的な油の膜が均一に作られ、食材のこびり付きを劇的に防ぐことができるようになる。

鉄フライパンを使う上で、もう一つ重要なのが火加減のコントロールである。
鉄は蓄熱性が非常に高いため、家庭のコンロであれば強火を使う場面はほとんど不要であると言って良い。むしろ、自分が想定しているよりも一段階低い火加減、すなわち中火や弱火を意識して活用することが肝要である。蓄熱性の高さと油の皮膜効果が合わされば、弱火や中火であっても食材の内部までしっかりと熱が伝わり、焦げ付きを防ぎながら美味しく仕上げることができる。

市販の冷凍食品や加工食品などのパッケージに記載されている「作り方」の火加減は、熱伝導率の高いアルミやテフロン加工のフライパンを前提に書かれていることが多いように思う。そのため、鉄フライパンで調理する際には、パッケージに書かれた指定の火力から少し差し引いて対応することが、失敗を避ける上での基本となる。

食材がこびり付いてしまう要因を整理してみると、予熱の不備、油の不足、そして強すぎる火力といった基本的な扱いのミスがまず挙げられる。それに加えて、食材自体の特性、例えば炭水化物に水分が合わさったものや、タンパク質を多く含む食材などは、金属表面と熱反応を起こして吸着しやすいため、こびり付きを誘発しやすい。

また、トマトソースや酢など酸味のある食材を調理すると、せっかく育ててきた油の皮膜が酸によって分解され、剥がれて鉄の地肌が白っぽく現れてしまうことがある。最初は少しショックを受けるかもしれないが、これについても後からメンテナンスを行えば十分に回復できるので、過度に恐れる必要はない。

調理後のメンテナンスについても、基本の理屈さえ押さえておけば難しいことは何もない。
使用後は洗剤を使わず、お湯と亀の子タワシなどで擦り洗いをするのが基本である。洗剤を使ってしまうと、表面に定着している油の皮膜まで洗い流してしまうからである。汚れを洗い流した後は、そのまま放置すると錆の原因になるため、コンロの火にかけて完全に水分を飛ばす。これが日常の基本の維持管理となる。

もちろん、汚れがひどい場合や、どうしても焦げ付きが残ってしまったようなときには、スチールタワシや金属ヘラなどを使って擦り落としても構わない。コーティングが剥がれたら寿命となるフッ素樹脂加工と違って、鉄フライパンは金属タワシでガシガシと擦っても本体がダメになることはない。

購入後の使い始めや、頑固な汚れを擦り落として皮膜が剥がれてしまったとき、あるいは油汚れが気になって洗剤で洗った後などは、可能であれば「油ならし」の作業を行って、改めて油の皮膜を再形成させておくのがベストである。さらに、長期間使わずに保管しておくような場面では、全体に薄く食用油を塗布しておくことで、空気中の湿気による赤錆の発生を防ぐことができる。

このような基本のルールを理解して守りさえすれば、鉄フライパンでの調理は決して敷居の高いものではなく、むしろ非常に合理的で扱いやすい道具である。テフロンのように使い捨てにする必要もなく、手入れを重ねるほどに扱いやすくなっていく過程や、食材の性質に合わせて火加減や油をどうコントロールするかを考えること自体が、逆に道具を使う楽しみの一つになっていると感じるのである。

AI作成(AI作成)

すっかり生成AIが生活の中に定着しつつある近年である。PC界隈の話題にとどまらず、仕事や日常の様々な場面で当たり前に使われるようになり、こんな時代がこれほど早く到来するとは、昔の自分には全く予想ができなかったことである。
文章生成の分野に限って言えば、自動で文章が作成できるということ自体には、以前からそれなりの興味は持っていた。
あらかじめ例文を大量にデータベースへ登録しておき、状況や条件に応じてそれらを適切に組み合わせる、という程度の仕組みであれば、随分と前から実用化されていたし、自分もそうした技術には触れてきた。大まかな仕組みの根底にある理屈としては、今も昔もそう変わらないのかもしれない。

だが、日本語で、しかも自然言語で、ある程度アバウトな指示を与えるだけで、実用的な文章が一瞬で成り立ってしまう仕組みが整い、それが特別コストをかけない、無料からでも手軽に使えて、ここまで急速に一般化するとは夢にも想定できなかった
しかも、現代のAIは単に登録された定型文を引っ張り出して繋ぎ合わせているわけではない。膨大なデータ量をベースに学習し、文脈を汲み取りながら、その場でゼロから「生成」しているのである。それはあたかも、生身の人間が画面の向こうにいて、こちらの意図を察しながら筆を執って作り出しているかのようでもある。
ゴーストライターという言葉も浮かぶ。ワープロ専用機の名称が文豪とか書院とか、文章を生成する機械、というイメージを作ってくれた、それを遙かに凌駕するのが生成AIである。GeminiとかChatGPTとかの名称があるが、もうそれは何でもできる知能を意味する。

キーボードによる文字入力に明け暮れ、ワープロ専用機やPCで一文字ずつ試行錯誤しながら文章を組み立てていた、生成AIなど露ほども知らなかった時代の若い自分が、もしこの時代の到来を知ったら、一体どういう風に驚き感激するのだろうか。思考をリアルタイムに文章へと具現化してくれるこのインターフェースの進化には、きっと言葉を失うほどの衝撃を受けるに違いないし、手書きがワープロになった以上の、革命的な進化である。
一方で、今の若い世代は物心ついた頃からPCやスマートフォンが手元にあるのが当たり前の世に育ってきている。文字入力もタップやフリック、あるいは音声入力が前提であり、最初からこうしたAI環境が日常に溶け込んでいる彼らにとっては、このような生成AIの登場がもたらす技術的な感動や隔世の感というものも、案外少ないのだろうと思う。
などと、それらしく長々と書き連ねてみたわけであるが、実のところ、この文章も生成AIにプロンプトを与えて作らせたものであることにほかならない。

画像生成AIのプロンプト(AI作成)

AIによる画像生成という技術も、ここ最近ですっかり一般化してきた感がある。
細部をつぶさに眺めれば、指先の処理や光の回り方など、いかにも生成AI特有の癖のようなものがまだ完全に抜けきっているわけではない。それでも、Webサイトの挿絵やちょっとした図版として使う分には、すでに実用的な水準に達していると言って差し支えない。技術の進歩とは恐ろしいものである。

だが、実際に自分で思い通りの画像を出力させようとすると、途端に壁に突き当たる。
画像生成におけるプロンプトの作成は、意外なほど難しい。通常の対話型AIで調べ物をしたり、テキストの要約や構成案を出させたりする作業に比べても、難易度の桁がひとつ違うのではないかと思う。
なぜ難しいのかといえば、頭の中にある視覚的なイメージ――描くべき情景の空気感や、そこに配置すべき細かな要素、被写体の佇まいといったもの――を、すべてテキストという記号に還元して記述しなければならないからである。

もともと文章力に長けており、情景描写を苦もなく活字に起こせる人であれば、意図した通りの指示をすんなりと組み立てられるのかもしれない。そして思い通りの絵が一発で出てくるのであれば、それはまさに正解のアプローチなのだろう。要するに、絵筆の代わりに文章で絵を描いているわけである。
しかし、一般的な文章力や語彙力でこれをやろうとすると、たちまち行き詰まってしまう。
画面全体の構図はどうするのか、画角は広角なのか望遠なのか、被写界深度はどうボケさせるのか。実写風の画像を作りたいのであれば、写真の基礎知識やカメラのレンズに関する光学的な用語、ライティングの専門用語まで動員して指示を出さなければならない。普通の人間にそんな芸当ができるはずもないし、普段から写真撮影や作画に携わっていない限り、用語そのものが思い浮かばないのが道理である。

もちろん、近年のAIは十分に賢いので、大雑把な言葉を投げるだけでも文脈を汲み取り、それなりに見栄えのする画像を仕立ててはくれる。だが、それはあくまで「AI側が見繕ってくれた無難な絵」であって、本当に自分が欲しかった画像とは、そこからもう一歩か二歩、遠いところにあるのが常である。この「あと一歩」を埋めるための構造化されたテキストを組むのが、とにかく骨が折れる。
であるならば、その面倒な文章化や構造化テキストの作成作業そのものを、最初からAIに下請けさせてしまえばよいのではないか。

自分が頭の中に思い描いている大まかなイメージや情景の概要、指示できる範囲の要素だけをまずはプレーンな文章でAIに投げ、「これを画像生成AIに適した構造化プロンプトとして書き直してくれ」と指示を出す。そうすると、被写体の配置や照明のトーン、レンズの画角やスタイルの指定に至るまで、驚くほど整ったプロンプトが手元に返ってくる。
人間側の仕事は、上がってきたプロンプトをそのまま画像生成ツールに放り込むか、あるいは出力された構造をよく読んで「なるほど、この表現にはこういう光学用語や形容詞を当てるのか」と観察し、少し手直しを加える程度で済む。そうして生成結果とプロンプトを見比べながら学んでいけば、次の機会にはもう少し解像度の高い指示が出せるようになるという次第である。

AIを道具として使いこなすために、別のAIを仲介役として使う。
屋上屋を架すようではあるが、道具の特性を理解して最も省力化できる段取りを組むという意味では、実に合理的で面白いアプローチだと思っている。

ゴーストライター(AI作成)

ゴーストライターという言葉は、昔からある。
他人に依頼して、あたかも自分自身が執筆したかのような原稿を仕立ててもらう、いわば思考や文体を肩代わりしてくれる「影の筆者」のことである。
もっとも、生身のプロに代筆を頼むなどというのは、著名人や政治家、あるいは一部の限られた文筆家だけの特権のようなものであって、一般の人間が日常の雑記やブログ記事のために気軽に雇えるはずもない。結局のところ、どんなに時間がかかろうが、キーボードに向かってうんうん唸りながら、自力で一文字ずつ原稿を書き進めるしかなかったのである。

ところが、そんな状況もここ数年で様変わりした。
今や生成AIが、個人専属のゴーストライター役を難なく担ってくれる時代になったのだと思う。
思い返せば、ほんの二、三年前の生成AI黎明期においては、プロンプトで指示を出せばそれなりの長文を吐き出してはくれたものの、どこかよそよそしく、いかにも「AIが平均値から整えた無味乾燥な優等生の文章」の域を出なかった。文法的には何一つ間違っていないのだが、読んでいて面白みがなく、体温が感じられない。こちらが求めているのは完璧なビジネスレターではなく、もっと自分の思考の癖が反映された、時には少しばかり不器用で、回りくどい言い回しすら含んだ「自分らしい文章」なのである。

それが近頃の生成AIときたら、こちらの意図を汲んで文体や語彙のリズムまで、かなり精緻にコントロールできるようになってきた。要するに、過去に自分が書いた文章をサンプルとして読み込ませ、文末の癖や思考の展開パターンをあらかじめ把握させておくのである。
たとえばGoogle Geminiを活用する場合でも、やり方はいくらでもある。
手軽なところでは、プロンプト内に過去のブログ記事や下書きのテキストをそのまま貼り付け、「このトーン&マナーと文末のリズムを踏襲して清書せよ」と指定するだけでも、それなりの精度で寄せてくる。さらに踏み込むなら、Gemini Notebook(NotebookLM)にこれまで書きためてきた膨大なテキストデータを放り込み、自分専用の文体データベースとして参照させながら執筆させるのも合理的であるし、カスタム指示を組み込んだGemや、エージェントの「スキル」として自分好みの代筆ルールを恒久的に定義しておくという手もある。

こうして環境を整えてやると、骨組みとなる下書きや要点だけを投げるだけで、まるで自分が長時間キーボードを叩いて推敲を重ねたかのような文章が、ほんの数秒で画面の上に立ち上がってくる。
人間側の作業といえば、仕上がってきた原稿をWZ EDITORなどの慣れたエディタに流し込み、ざっと一読して細部の表現を整えたり、わずかな手直しを加えたりする程度で済んでしまう。実のところ、今読んでいるこの文章にしても、千数百字程度の大雑把な骨子を自分で用意し、あとの肉付けや文体の調整は生成AIに一任して仕上げたものである。

道具の扱い方ひとつで、これほど快適で納得のいく文章作成環境が手に入るのだから、実にありがたい。
思考を活字へと定着させるプロセスは、気づけばもう次の段階へと足を踏み入れているようである。

Windows 11 26H2に

少し前に、Windows 11のメジャーアップデートに相当する26H2に更新された。
実体的には、すでに少しずつ新機能がWindows Updateで廃止されていて、その更新は一部先行して使えていたりしたような感もあるが、その更新でスイッチが正式にオンにされて有効になったという感じで、短時間で更新が済んだ。少し前の大型アップデートはOSを入れ替えるのかと言うくらいの大作業で、自分も構えてアップデートをしたりしていたが、最新のWindowsは、そういうところも改善されたようだ。

ところで、このThinkPad E14で、少し前から現象が出ていたBluetoothキーボードの何らかの競合問題。これに更新されたタイミングで改善されるかリセットされたかと期待して、今まで有線接続で専ら使っていたRealforce R4を、久々にBluetooth接続をしなおしてみた。
根本的な何かの問題なら変わらない可能性もあると覚悟しつつ、結果、今のところはBT接続でも勝手な入力エラーが発生することなく、使えるようになったかもしれない。
これが、26H2になったことが要因なのか何なのかはわからない。しばらくすると、あるいはすぐにでも、また発生・再発しないとも限らない。
まあ、そうなったらまたBT接続を削除して、専ら有線の接続に変更するだけなのであって、この環境においてはどうしてもBT接続でなければならないという理由もない。有線の利点もある。一瞬で切り替えられるよう、USBのケーブルがすぐそばにあったりもする。
このまま、どちらも問題なく、結果的には好きな方で使えるようになれば、それで良い。

……、と思って使い続けていたら、やはり前と同じ状況、勝手に連続して文字が入力される状況に陥った。
やはり26H2も関係なく、ともかくこのPCではBluetoothのキーボード接続が完全にいかれてしまっている。
接続を削除して有線に切り替えて、以前と同じくとても安定。

このPCでは、当初、Realforce RC1を使っていた。30gモデルで打鍵感やキーボードのツートンの色合いがとても気に入っている。しかしOpenTTDその他、あのようなコンパクトな配列だといくつかの不都合もあって、普通のテンキーレスにしたくなった。
その時点では、R4のUS配列、30gモデルが選べなかったので、一時的にR3Sの環境にしてしばらくそれを使っていたが、あるとき見たらR4も30gモデルのUS配列が出ていたので、少し前に、これに変更した。キーボード環境として、これが最も快適である。
無線Bluetooth環境がやはり使えないのが気がかりではあるが、無線でなければならない理由もない使い方をしているので、むず痒い感もないわけではないが、何とかこの環境が最良だと思って使えている。
なお、同じ押下圧でもR4はR3Sともまた打鍵感が違っている。キーキャップの違いか何か。

青インクとブルーブラック(AI作成)

だいたいここでも文具だの入力環境だのといった身の回りの道具についてばかり書いているわけであるが、今回もまた、懲りずにペンのインクの話である。

日本では、公的な書類をはじめとして日常の筆記に至るまで、インクの色といえば「黒」が絶対的な標準とされている。学校でも職場でも、黒以外の色で文字を書くといえばせいぜい校正や強調のための赤くらいのものであって、本文を黒以外で書くことなど一般的な感覚からすれば些か異端の部類に入るのかもしれない。

ところが、欧米に目を向けてみると事情は少々異なるようで、公的書類のサインなどにおいてむしろ青インクのほうが主流であったり、好んで使われる文化があるという話を耳にする。原本と複写を見分けるための実利的な理由もあるようだが、日常的に青で書くことがごく自然な選択肢として社会に定着しているというのは、どこか興味深いものがある。

自分自身、昔からどういうわけか、この青インクやブルーブラックという色に対して、単なる筆記用具の消耗品という枠を超えた、何かしら特別な愛着のようなものを抱き続けてきた。

記憶の底にある青い筆跡と原体験

思えば、この青に対する執着の原点を辿ってみると、子供の頃の記憶に行き着くのではないかという気がしている。

元をたどれば、祖父が青インクのボールペンを使って淡々と日記を書いている姿を傍らでよく眺めていた記憶がある。あるいは、周囲の大人が扱っていた何かの書類で、万年筆によるブルーブラックの筆跡を目にする機会があり、子供心にそれがひどく大人びて見えたというか、どこか知性的で格好の良いものとして印象に残っていたのかもしれない。

そうした記憶が原体験となっていたのか、家にあった青インクのボールペンをわざわざ引っ張り出してきては、ノートの余白に何か文章を書くことを好んでいた時期もあった。周囲の誰もが当たり前のように黒インクや鉛筆を使っている中で、自分だけが青いインクで文字を綴る。世間一般において黒が圧倒的な主流であるからこそ、主体色として使う人がずっと少ない青インクに対して、「これこそが自分の色なのではないか」という密かな自負のようなものが芽生えていったのだと思う。

万年筆との出会いとブルーブラックの特別感

その後、学生時代に初めて万年筆を使う機会が訪れた。そのときに軸へ差し込んだのが、ブルーブラックのカートリッジインクである。

ペン先から紙へとインクが滑らかに吸い込まれ、書いた瞬間のみずみずしい濃紺から、紙の上で空気に触れてわずかに落ち着いた深い色調へと変化していく過程。そのブルーブラックで書かれた文字の陰影を眺めたとき、ボールペンの青とはまた異なる、何とも言えない独特の情緒と特別感を覚えたのを鮮明に記憶している。

均一で無機質な黒の線とは異なり、万年筆のブルーブラックには濃淡の揺らぎがあり、筆圧や運筆の速度によって豊かな表情を見せる。思考を文字として紙に定着させる行為そのものが、どこか深みを帯びた作業に感じられたのである。

リフィルを青に差し替える日常

そんな経過を経て、大人になってから文具や万年筆への興味が再燃してからは、やはり日頃の基本色として選ぶのは青インク、あるいは万年筆であればブルーブラックということになった。

現在使っているボールペンにしても、購入時に最初から入っている黒インクのリフィルをそのまま使うということはまずない。ペン本体を手に入れると同時に、別に買っておいた青インクのリフィルに差し替えてから実戦投入するのが常である。仕事などで重宝する多色ペンにしても同様で、手帳やノートの筆記で一番消費するのは間違いなく青インクであり、気がつけば机の引き出しの中には青のリフィルばかりが何本も予備として買い込まれているという按配である。黒や赤のリフィルがほとんど減らないのに対して、青の予備ばかりが増えていくのだから、端から見れば些か極端な偏りなのかもしれない。

様々なインクを経て、行き着く先

万年筆に関しても、一時期はいわゆるインク沼の端くれとして、各社から出ている色とりどりのインクを色々と試してみた時期があった。鮮やかなターコイズや深緑、あるいはセピア調の茶系など、それぞれの色合いには確かな魅力があり、試筆している瞬間はどれも実に楽しいものである。

しかしながら、日常的に長文を書き連ねたり、思考を整理したりする道具として使い込んでいくと、どうにも目が落ち着かないというか、しっくりこない感覚が付きまとう。結局のところ、最終的には決まってブルーブラックへと落ち着くのである。もっとも、純粋な青インクの抜けの良い鮮やかさも決して悪くはないのだが、長時間の筆記でも疲れず、書いた紙面が端正に引き締まるブルーブラックの安心感は、やはり代え難いものがある。

世間の標準が黒であるならば、自分は青やブルーブラックを選ぶ。それは他者との差別化を気取った大仰な話ではなく、子供の頃に目にした大人たちの筆跡の記憶であり、何より自分自身の思考の波長に最も馴染むのがこの色だったという、ごく自然な帰着点なのだと思う。定着してしまえば、これで十分なのである。

AI作成の自分の文章

Google Geminiで、当初はGemini Notebookにこのブログの文章をデータベース的に読み込ませて、そこで過去に書いた内容を検索し、分析させたり、あるいはその文章を文例とか文体サンプルとして、ゴーストライター的に文章作成をしてもらいたいという考えがあり、そんな使い方もしていた。
あるいは、Gemで自分の文章の特徴を定型化させておいて、それを使って文章を書いてもらうことにしていた。
ところが、Gemはまもなく廃止されてスキルに統合されるというので、そのGemを元に、いくつかサンプルも読み込ませて、ゴーストライターのスキルを作った。

そのスキルに、これから書きたい文章のサマリー的なものを読み込ませて、内容を膨らませてもらって、文章化するという試みを行っている。
大体、うまくいく。自分風の文章で、自分あるいは他人が何度も推敲を重ねてかなり良くなった文章が結果として得られる。
これで結局、書くこと自体は楽になるか、時短になるかというと、意外と、そうでもない。初期コストとしてはスキルを作成し、あるいは調整したりする時間だが、書いてもらう時も、サマリーを作成する時間はそれなりに必要で、最初に下書き的に全部書くことよりは少し短いが、そう変わりがあるようなものでもない。
つまり、AI作成としても指示は人間が行うので、楽になる部分もあれば、違った作業、すなわちプロンプト作成に要する時間が別に必要になってきているのである。

もっとちゃんとしたところに公表するような文章では、AI作成の文章もそのまま使うことはせずに推敲して自分の手で仕上げをすることを考えれば、そういう時間も必要となる。

  • 生成AIは、あたかも人間がそこに居て答えを返しているかのようだ。
  • このようなAIの時代、いずれ来るのかもしれないとは考えていたが、こんなに急速に来るとは想定外。少なくとも今から20年以上先だろうと思っていたが、あっという間に浸透してきた。
  • 初めて触れた生成AIはChatGPT。英語ではなく普通の日本語に、ちゃんとした日本語での回答が返ってきたのは驚きだった。
  • それからCopilotやGoogle Bard(Gemini)など、あっという間に他の生成AIもリリースされて、すぐに性能が向上していった。
  • 初期の生成AIでは答えが得られなかったことでも、気づけばもう何でも回答が得られて、文章生成力やプロンプトの理解力も向上。
  • 生成AIは文章生成はもちろん、コーディングも得意。
  • 特別なスキルがほとんど無くても、結果を得ることができる。分野によっては、もうプログラミング、コーディングは必要ない。
  • 文章は書けてもコーディングはできない自分にとっては、とてもありがたい。
  • 文章の書き方も変わる。全部自分で書かずに、要点・下書きだけ作ってあとはAIに完成させてもらう。ゼロから作ってもらっても良い。
  • 自分の文章の癖を学習させておけば、もう完全にゴーストライターである。
  • 文章生成やコーディングだけの役割でもない。チャットで話し相手にもなれば、Webを検索して調査もしてくれる。エージェント型になれば、自動的に指定したタスクもこなす。
  • 質の高い画像や動画などのコンテンツ生成もすでに実用域である。
  • 優秀な部下を雇ったのにも等しい。
  • ワープロ、パソコン、スマホが普及したように、AIはますます生活に入り込み、人間の社会活動において必須のものになる。
  • 時代において行かれぬようにせねばならぬ。

AI雑感(AI作成)

さて、ここ数年で一気に身近になった生成AIであるが、実際に使ってみると、あたかも画面の向こう側に生身の人間が居て、こちらの問いかけに対してリアルタイムに答えを返しているかのようである。
思えば、こうした自然な対話ができるAIの時代というのは、いずれ来るのかもしれないとは考えていたものの、まさかこれほど急速に現実のものになるとは完全に想定外であった。個人的な感覚としては、少なくとも今から20年以上は先の未来の話であろうと思っていたのであるが、気づけばあっという間に世の中に浸透してきたという感がある。

初めて触れた生成AIはChatGPTであった。この手の技術というのは、当初は英語でなければまともに機能しないといったことも珍しくないのであるが、いざ試してみると、こちらの普通の日本語による問いかけに対して、ちゃんとした自然な日本語での回答が返ってきたのには正直なところ驚かされたのである。
それからというもの、MicrosoftのCopilotやGoogleのBard(現在のGemini)など、他の生成AIもあっという間にリリースされて、しかもその性能が極めて短いスパンで向上していった。初期の生成AIではまともな答えが得られなかったり、あるいは見当違いな回答が返ってきたりしたようなことでも、気づけばもう何を聞いてもそれなりの回答が得られるようになっていて、文章の生成力はもとより、こちらの曖昧なプロンプトに対する理解力も飛躍的に向上しているという次第である。

ともかく、この生成AIというやつは、自然な文章生成はもちろんのこと、プログラムのコーディングも実に得意としている。これまでは専門的な知識がなければ手が出せなかったような領域でも、特別なスキルがほとんど無くても、AIに指示を出すだけで目的の結果を得ることができるのである。分野によっては、人間がいちいちプログラミングやコーディングの文法を学んで手で書く必要は、もうないのかもしれない。
普段からテキストエディタや一太郎に向かって文章を書くことはできても、コーディングとなるとからきしできない自分にとっては、これはもう、とてもありがたい話に他ならない。

一方、肝心の「文章の書き方」そのものも、これから大きく変わっていくのだと思う。これまでのように最初から最後まで全部自分でキーボードを叩いて書かずに、伝えたい要点や大まかな下書きだけを作って、あとはAIに投げて完成させてもらうというやり方がすでに成り立っている。なんなら、テーマだけ与えてゼロから作ってもらっても良い。さらに言えば、あらかじめ自分の書いた過去のテキストを読ませて文章の癖や思考のパターンを学習させておけば、自分そっくりの文体で出力してくれるわけで、こうなるともう完全にゴーストライターである。

もっとも、生成AIの役割は単なる文章生成やコーディングだけにとどまるものではない。チャットでちょっとした話し相手や壁打ち相手にもなれば、Webを検索して必要な情報を調査し、わかりやすくまとめてもくれる。さらに自律的なエージェント型のAIともなれば、あらかじめ指定した複雑なタスクを人間が介入することなく自動的にこなしてくれるようにもなってきている。また、テキストだけでなく、質の高い画像や動画といったコンテンツの生成も、単なるお遊びのレベルを超えてすでに十分実用域に達していると言ってよい。
言ってみれば、これだけ多才で文句も言わずに働く優秀な部下を、手元に一人雇ったのにも等しい状況なのである。これで十分というか、個人で扱えるツールとしては破格の環境になったという気がしている。

かつてワープロ専用機が登場し、やがてパソコンやインターネット、そしてスマートフォンが当たり前のように普及していったように、AIもまた、これからますます我々の日常生活や仕事の中に入り込み、人間の社会活動において必須のインフラになっていくに違いない。
変化のスピードには目を見張るものがあるが、ともあれ、この新しい時代において行かれぬようにせねばならぬ、と思う今日この頃である。

能率GOLD(AI作成)

気づけば10月も半ばを過ぎ、来月末頃にはもう来年・2027年版の手帳へと切り替える時期が近づいてきた。一年が経つのは実に早いものである。
振り返ってみれば、自分が「能率手帳GOLD」を使い始めてから、かれこれ5年ほどになるだろうか。表紙に名入れをしてもらい、価格にして7千円以上もする革製の手帳である。いわゆるビジネス手帳としては決して安価な部類ではない。
世間一般で言えば、革の手帳といえば巨大なシステム手帳を思い浮かべがちであるが、そこまでの大仰さはないにせよ、どこか小さなエグゼクティブ感というか、端正な佇まいがある。無論、自分自身がそうした華々しいグレードの層に身を置いているわけではないのだが、毎日肌身離さず持ち歩く手帳くらい、少しばかり贅沢をしてみても誰に気兼ねすることもあるまい、と思って使い続けている次第である。

能率手帳そのものは文具売り場でもお馴染みの極めてポピュラーな存在であるが、この「GOLD」は小口が金箔仕上げになっており、どんな筆記具を使っても裏抜けや裏写りがしにくい、薄く黄色がかった専用用紙で製本された豪華版の綴じ手帳である。
実のところ、手帳の小口に施された金にわざわざ着目する人はそう多くないのかもしれない。しかし、これがまず良い。GOLDたる所以の一つでもある。小口が金色に仕上げられた手帳自体は他社にもっと手頃な価格のものも存在するが、手帳を手にして開くたび、「いかにもこれから何か重要なことを書き留めるのだ」という静かな期待感と緊張感で満たされる。この感覚は、日常の道具として案外馬鹿にできないものだと思う。

また、専用の用紙も純白ではなく、目に優しいクリーム色(黄色がかった色合い)をしており、これがまた実に書きやすい。万年筆や鉛筆を走らせたときの引っかかりのなさ、インクの吸い込みの塩梅が絶妙なのである。さらに、後ろの見返しに挟み込んでおける補充ノートが2冊付属しているのだが、感心することに、この補充ノートの小口までもが抜かりなく金箔で仕上げられている。こうした妥協のない作り込みは、使っていて実に気持ちが良い。

正確に言えば、自分が使っているのは通常サイズではなく、その「小型版」のほうである。
一般的な手帳と比べると一回りほど小ぶりなサイズ感なのだが、これが実にちょうど良い。ワイシャツの胸ポケットにも無理なくすっぽりと収まり、手にしたときの収まりが良く、とにかく扱いやすいサイズなのだ。
もちろん、サイズが一回り小さいということは、それだけ日々の筆記領域も限られるということでもある。年齢的に小さな文字をちまちまと書き込むのは年々つらくなってきているのが正直なところであるが、それでもなお、このサイズならではの取り回しの良さは捨てがたい。

日々の使い道としては、仕事や私用のスケジュール管理、その日のToDoの書き出し、ちょっとした雑記やメモ、あるいは必要な時刻表を小さく挟み込んだり、といった按配である。もちろん全ページを隅から隅まで几帳面に埋め尽くしているわけではない。空白の日が続くことだってある。それでも、手元にこれがないと、日々の「なすべきことの拠り所」を見失ってしまうのではないかと落ち着かなくなるくらいには、生活のリズムに深く根付いてしまっている。
今年も残りわずか。まもなく手元に届くであろう新しい手帳の革の感触を確かめつつ、次の一年への準備を進めることになりそうである。

「黒革の手帖」(AI作成)

思えば、手帳というものに対する漠然とした憧憬の原点は、子供の頃にまでさかのぼる。
当時、松本清張の『黒革の手帖』という小説(あるいはテレビドラマであったかもしれない)のタイトルがやけに耳に残っていて、子供心に「黒革の手帖」という言葉の響きそのものに、どこか特別な、大人の世界めいた重みを感じていたのである。
昭和の時代、年末ともなれば企業や銀行が競うように企業名入りの手帳を粗品として配っており、どこの家庭や職場にも使い切れないほどの手帳が余っていた。そんな余り物や、年が明けて役目を終えた前年の古い手帳をもらい受けては、いっぱしの大人になった気で何かしら意味ありげに書き込んでいた記憶がある。表紙はおそらく安っぽいビニールや合皮の類であったはずだが、当時の自分にとっては、それこそが紛れもない「黒革の手帖」であったのだと思う。

そんな原体験も手伝ってか、自分にとって日付やカレンダーの刻まれた手帳とは、単なるスケジュール帳というよりは、過去と現在、そして未来を結ぶ一種の「時刻表」のような存在として映っていた。たとえ日々の予定などほとんどなく、書くべき事柄が何ひとつないような日であっても、その紙面を掌中に収めているだけで、どこか満ち足りた気分になれたものである。

その後、学生時代には小さなシステム手帳のようなものを試してみたこともあった。しかし、リング径の分だけどうしてもかさばるうえに、金具が手に当たってバインダー式はとにかく文字が書きにくい。結局、長くは続かなかった。
やがて時代はデジタルへとシフトし、何でもパソコンで一元管理できるような錯覚を覚えた時期もあった。いわゆるPIM(個人情報管理)と呼ばれるフリーソフトなどを探し回り、画面上で細かく予定やタスクを整理してみたりもしたのである。確かにデジタルの画面上では整然と美しくまとまるのだが、当時は今のように手軽に持ち歩く術もなく、肝心なときにさっと参照できない不便さに突き当たり、いつしか手帳の存在そのものからもしばらく足が遠のいてしまっていた。

そんな手帳熱が再び燃え上がったのは、今から20年ほど前のことである。
職場の同僚に、日々の業務から私事の些細な事柄に至るまで、徹底的に何でも手帳に書き込んで見事に仕事を回している人物がいた。その鮮やかな使いこなしに目を見張ったことと、ちょうどその頃に自分の中で文具全般に対する興味が改めて湧いてきていた時期とが重なり、再び手帳という道具に向き合ってみようと思い立ったのである。
そこからは試行錯誤の連続であった。高橋書店の定番品を使い、能率手帳に手を伸ばし、あるいはネクサスゾーンなどをそれぞれ数年ずつ使ってみるという遍歴を辿った。そうした変遷の中で決定打となったのが、「NOLTY ライツメモ小型版」との出会いである。ここで自分はすっかりこの「小型版」というサイズ感に傾倒することになった。
フォーマットとしては、ライツメモやネクサスゾーンのように、予定が一目で俯瞰できるブロック型の月間カレンダーに直接書き込めるものが最も性に合っている。使った週の小口の端をちぎり取っていくギミックなども、道具としての手応えがあって実に面白い。

その点、現在愛用している能率手帳GOLDは、週間ページこそ王道のレフト式で申し分ないのだが、月間ページがカレンダー型ではなくガントチャート(進行表)形式になっている。正直なところ、このガントチャートだけは今ひとつ使いこなせておらず、「ここがカレンダー型であれば言うことなしなのだが」と毎年思い続けているのも事実である。
とはいえ、あの小口の金箔の佇まい、上質な用紙の書き心地、そして掌や胸ポケットにすんなり収まる絶妙なサイズ感など、他の要素がそれを補って余りあるほど気に入っている。多少の使いにくさや好みの不一致には目をつぶり、何とか自分なりの使い方を工夫して付き合っていく――道具とは、案外そういう妥協と納得のあいだで馴染んでいくものなのかもしれない。

生成AI環境(AI作成)

生成AIというものが一般的に使われるようになってから、まだそれほど長い年月が経っているわけではない。初期の頃、とは言っても2023年頃、今からほんの数年前までは、一般のユーザが触れるものと言えばChatGPTくらいしかなかったように思うのだが、今ではもう全体を把握しきれないくらいに多数のAIツールが存在している。
Googleのサービス一つをとってみても、主たるGeminiのほか、実に様々なツールや機能が用意されているという状況である。

自分が現在契約して使っているプランでは、そのプランに含まれる特典のような形で、無料分の「クレジット」が付与されて利用できるツールなどもあるのだが、正直なところ、それらを全部は使いこなせていない。
普段やっていることと言えば、せいぜいGeminiやGoogle Notebookを使って調べ物をしたり、手元の情報を整理したり、あるいは簡単なコンテンツ生成を行ったりする程度である。あとは、最近になって使えるようになったAIエージェント的な機能に、ほんの少し頼ってみるくらいといったところである。

もっとも、自分の性格からすると、せっかくプランに含まれている機能やクレジットがあるのに、現行のこれだけの使い方しかしていないというのは、何だか勿体ないという気もしてくる。もう少しあれこれと手を広げて、提供されている機能を隅々まで使ってみるべきなのではないか、などと考えてしまうのである。
ただ、そのあたりのことを当のGeminiに訊いてみると、個人の使い方としては、今くらいに使いこなしていればそれで十分だというような答えが返ってくる。

言われてみれば、確かにそういうものかもしれない。そういうAIツールを駆使して何かビジネスをしているというのなら話は別であるが、自宅での私的用途という範囲で考えれば、実際のところ、今の使い方くらいでちょうど良いのである。
それ以外の楽しみ方としても、あとはせいぜいGoogle AI Studioで少し違ったモデルを試してみたり、Flowのような動画コンテンツ生成ツールを触って遊んでみたりするくらいであろうか。

そうやって改めて自分の使い方をちゃんと考えてみると、ただ漫然と使っているようであっても、実のところはこれだけでも十分すぎるほどのAIの活用ができているということに他ならない。自分の用途や環境に合わせて、必要なものを必要なだけ選んで使えているのだから、これで十分なのである。

それにしても、と少し思うのは、これからの世代の人たちのことである。物心ついた時から、あるいは最初からこれほど膨大で多様なAI環境に囲まれている中で、どうやって自分に合ったツールを選択し、それを使いこなしていくことになるのであろうか。かつてワープロ専用機からパソコンへと移行し、限られたソフトウエアの中からテキストエディタや入力環境を少しずつ選んで整えてきた自分の世代からすると、まるで想像がつかないような選択肢の広さであるという気がしている。

燐寸(AI作成)

仏壇の蝋燭に火を灯す時、昭和の頃は確かに誰もが燐寸を使っていた。当時も使い捨てライター自体はすでに普及していたはずなのだが、こと仏壇の前に限っては、皆ごく当たり前のように燐寸箱を手に取っていたように思う。たばこ、ガスコンロや風呂釜、旧式の石油ストーブの点火などにも使われていた。

それがいつの間にか、自分の親の世代のあたりから百円ライターに取って代わられ、やがてノズルが長く伸びた点火器具、いわゆるチャッカマンの類へと移行していった。
合理的といえば、これほど合理的な道具もない。燃えかすの軸が残る心配はなく、手元からしっかり距離を取って安全に点火できるし、トリガーから指を離せば瞬時に火が消える。仏壇での日常使いはもちろん、風の吹く屋外での墓参りなどにはまさにうってつけで、利点ばかりが目立つ。そうした実用性の高さゆえに、自分自身もかれこれ何十年と、何の疑問も抱かずにこの手の点火器具を使い続けてきたのである。

だが、ここへ来てふと手元を見つめ直したとき、どうにも味気なさを感じるようになった。
カチリと無機質なプラスチックのスイッチを押し下げ、ガスがシューと抜ける音とともに火を点ける。それ自体に何の不都合もないのだが、儀礼としての手触りがあまりにも平坦すぎるのだ。
そんなことを思いながら、あるとき仏壇の引き出しを開けてみると、使われないまま眠っていた燐寸が幾つも出てきた。仏具店や、かつて誰かが立ち寄った飲食店の名が刷り込まれた小さな小箱。かつては街のあちこちで粗品として手渡されていたものが、そのまま引き出しの奥深くに溜まっていたのであろう。

脇を見れば、真鍮製の小さな火消し壺もちゃんと残されていた。思えば祖父の代の頃、擦り終えた燐寸の軸をこれに放り込み、蓋をして消していた光景が脳裏に蘇る。使い方は身に染みて覚えている。自分とて、そこまで新世代の人間というわけではないのだ。
試しに、毎朝仏壇に手を合わせる際、箱でシュッと擦って火を灯してみることにした。

これが、思いのほか良い。
指先に伝わる手応えとともに乾いた摩擦音が響き、一瞬の閃光とともに小さな炎が立ち上がる。蝋燭の芯に火を移し、軸を静かに火消し壺へ落とす。直後に立ちのぼる独特のあの燃え香が、鼻腔をかすめて実に懐かしい。やはり、蝋燭に火を灯すという行為には、燐寸点火ならではの落ち着いた風情がある。手を合わせる気持ちも引き締まる。

引き出しにあるものを「使わないのは勿体ないから消費する」という実用主義的な感覚とも少し違う。すべて使い切る見通しなど到底立たないし、仮に使い切ったところで、今でも燐寸はスーパーや金物屋の片隅でちゃんと売られている。無くなったら困るから使わないという選択はない。
最近の自分を振り返ってみると、万年筆や鉛筆といった文具の扱いに始まり、どうにも身の回りのものを昔の所作や道具へと回帰させたがっている節がある。無駄を削ぎ落とした合理的な便利さばかりを追い求めてきた結果、その反動として、少しの手間と手応えを求めているのかもしれない。
朝の静かな薄暗がりの中、燐寸を一本擦る。これで十分であり、今の自分にはこの按配がちょうど良いのである。

プログラム(AI作成)

パソコンというものは本来、既成のアプリケーションを使う以前に、まず自分でコードを書いてプログラムを組み、それを走らせて動かすための道具なのだと、昔は本気で思っていた。
雑誌や入門書に載っていたBASICなどのコードの羅列を目にするたび、果たして自分にこのような芸当ができるのだろうかと途方に暮れたものである。書店の棚から初心者向けの解説書を手に取ってみるものの、少し読み進めただけで忽ち理解が追いつかなくなり、結局は最初の数ページで挫折を繰り返すばかりであった。

ところが、自分が本格的にPCを道具として使い始める頃には、世の中はすでに便利な市販アプリケーションで溢れかえっていた。自分で一からプログラムなど組まなくとも、実用面で困るような場面はどこにもなかったのである。
以来、関心を惹かれたアプリケーションや環境は片っ端から試してきたし、常に最新の動向を追いかけ、設定を追い込んできた。結果として、プログラミングに関する専門知識もコーディング能力も持ち合わせていないにもかかわらず、周囲からはいつの間にか「パソコンにやたら詳しい人」という枠組みに分類されるようになっていた。
だが、心のどこかでは、自前でプログラムを組んで自在に動かすことができる人たちへの羨望を、ずっと拭い去れずにいたのである。何とかして自分でもコードを操れないものか、と。

現実には、日常的に使っているワープロやテキストエディタのマクロ機能ですら、自分で組むとなればハードルは恐ろしく高い。誰かが公開してくれたマクロの記述を開いて、数値をいじったり簡単な手直しを加えたりするのが精一杯といったところだ。ブログを触る過程でHTMLやCSSの装飾くらいは何とか勉強もして理解できるようになったものの、そこにJavaScriptなどのスクリプトを組み込む段階になると、もう手も足も出ない。
結局のところ、他人が丹精込めて作り上げたアプリケーションやマクロ、スクリプトの恩恵に浴し、それらをありがたく使わせてもらう日々が何十年と続いてきた。

そうした諦念を長らく抱えていたところへ、登場したのが生成AIである。
こちらの意図を普段使っている平易な言葉で説明し、あるいは簡単な箇条書きの仕様書めいたものを渡してやるだけで、文脈を的確に汲み取り、破綻のない動くコードを一瞬で仕立て上げてくれる。最早、プログラミング言語の厳密な文法知識を頭に叩き込む必要など、どこにもなくなってしまったのだ。
もちろん、大規模な業務システムや複雑な設計を要する大がかりなソフトウェアとなれば、AIを適切に制御・監督するための高度なアーキテクチャ知識が依然として求められるのであろう。だが、自分が求めているのはそんな大層な代物ではない。PCに向かって日常の雑務をこなす中で、「ここがもう少し自動化できたら楽になるのに」というような、ちょっとした小回りの利くツールがあれば、それで十二分なのである。

そして、そうした規模のスクリプトやツール作成であれば、昨今のAIにとっては文字通り朝飯前なのだ。
まるで既存のソースコードをどこかの引き出しから持ってきただけなのではないかと錯覚するほど、ほんの数秒待つだけで、注釈付きの完璧なコードを出力してくる。これにはただただ感心するほかない。かつて入門書の最初の壁に跳ね返され、遠い世界のことだと諦めていた「自分の思い通りのプログラムを動かす」という体験が、AIの力を借りることで、あっさりと実現する時代が訪れてしまった。

思えば、道具との付き合い方も随分と様変わりしたものである。もっとも、こうしてキーボードに向かってそれらしく書き連ねているこの文章自体、AIにプロットを投げて代筆させているものなのだから、時代も変われば変わるものだと苦笑せざるを得ないのである。